夜も疾うに更けた頃、暗闇が差し込む神殿の内側を進んでゆく。慣れた道のりを辿って首領の部屋の前に立ち、内側へそっと声を投げる。セトス、と。若き首領の名を呼べば、少しの沈黙ののちに部屋の主がイクリマの前にまで足を運んだ。
「イクリマ、どうしたの?」
「この間、傷薬が切れたって言ってただろう。さっき薬を調合したから、必要ならと思って」
手のひらに収まる程度の大きさの、携帯用の傷薬。幾らか用意したケースをセトスへ差しだせば、彼はその表情を太陽のように明るくさせる。「まだ補充してなかったんだ、助かったよ!」セトスの言葉に、イクリマはほっと息吐いた。余計な世話にならず彼を助けることが出来たのであれば、それがなにより喜ばしい。
「せっかくだし上がっていってよ」
「それはかまわないけれど……なにかあったのか?」
「いいや、なんにも。イクリマと話したいだけ」
そしてセトスはイクリマの手を引き、彼を室内へと招き入れる。けれど手を引かれたイクリマは、セトスの言葉へ目を丸くさせたまま。浮かぶ疑問が言語を得る前に針を立てられ、胸のうちでぷつんと割れる。それでもイクリマのなかには、不可思議な心地が残っていた。
セトスはイクリマの表情を視界に入れると小さく笑い、来客用の椅子に彼を座らせる。ちょっと待ってて、と告げてその場を離れたセトスは、携帯用の傷薬を早速荷物へ加えているようだった。てきぱきとした指先を見つめたのちにふと視線を動かしたところで、棚のうえに新顔を発見する。あれは、と呟くと、セトスがにんまりと笑った。
「この間、モンドからの行商人がシティにきてたんだ。せっかくだから、試しに買ってみたんだよね」
「ああ、成る程……」
棚の低い位置に鎮座しているボトルは、モンドの特産品であるというワインらしい。異国の酒に罪はないのだが思わず苦い心地を覚えながら、セトスの言葉へ緩く頷く。けれど彼はイクリマの心中などよくよく理解していたから、その顔から幼く意地悪な笑みは消えなかった。
「イクリマも一緒に飲む?」
「おれはしばらく、お酒は控えるよ……」
オルモス港へ出向いた際にモンドの特産品であるという酒を飲んだのが、いまから二週間ほど前のことだ。そこで酒杯を傾ける速度を誤った結果したたかに酔ってしまい、喋る必要のないことまでくちにしてしまった。深酒が高じて忘れられればよかったのだが、イクリマはいまのところ記憶を失ったことがない。そのため酔った自分のくちにしたことも、よくよく頭に残っていた。
どうすればいいかわからない、などと。全く以て情けないことばかりくちにしてしまった、その反省はいまも続いている。けれどセトスはそのときのイクリマの様子が愉快だったのか、折に触れて当時を蒸し返されるのである。もう忘れておくれ、と懇願するのだが、ちょっと難しいかな、と軽やかな笑い声とともに一蹴された。
「いいじゃん、僕は嬉しかったけどな」
「そう、なのか?」
「うん。イクリマはあんまり、ああいうことを言わないから」
荷物の整理を終えたセトスはイクリマの隣の椅子を引き、彼の顔を覗き込む。指が伸ばされ、頬を撫でられた。まるで当時の夜をなぞるような行動に、そっとくちびるを結ぶ。あのときの自分は、幼い頃へ回帰したかのようにセトスへ身を寄せていた。けれど、いまの自分が同じ行動を取ることは難しい。それでありながら、彼の手から離れることも出来なかった。
「『沈黙の殿』は、色んなことが変わった。イクリマには特に付きあわせてる、無理をさせてる自覚はあるんだ。それなのに君は、なにも言わない」
「ううん、そうかな。最初のほうなんて、毎日お前に弱音を聞かせていたと思うけれど」
頬を撫でる手が落ちて、イクリマの髪先に触れる。彼の癖だ、思考と感情を整理するときの。イクリマにわかるのはそれだけで、セトスほど的確に相手のこころを汲みとることが出来ない。しかしイクリマは、セトスに難しい顔をさせていたくなかった。その原因が自分にあるのならなおのこと、彼の思考はそのような些事に割かれるべきではない。
「それに、別に大したことではないから。セトスが気に病まなくていい」
だからイクリマはセトスを安心させるようにそう告げて、小さく笑う。『沈黙の殿』の首領が巡らせるべき思考は大願のためにあり、雨林へ未だ馴染まない同胞の古い思想に囚われてしまってはいけない。またイクリマばかりを気にかけるせいで、雨林に溶け込むただの青年セトスの伸びやかに開かれた交流が損なわれてもいけないのだから。
「――……」
だがその瞬間、何故だろうか。まるで蝋燭の火が空気を孕んで膨らんだような強い気流を感じて、思わず目を見張る。けれど部屋の明かりに異常はなく、イクリマの言葉を聞くセトスの表情にも変化はない。それなのに錯覚と断ずるのを躊躇する、奇妙なざわめきが神経の端を震わせていた。
「ねぇ、イクリマ」
「あ、ああ」
逆立った神経が過敏になっているせいだろう、セトスの声に僅かばかり肩を震わせてしまう。彼はそれを見て小さく笑うとおもむろに立ちあがり、そしてイクリマとの間にある距離を更に埋めた。幾らもなかったものが皆無になる。彼に、抱き締められていた。
「せ、セトス……?」
唐突な行動の理由がわからずに硬直していると、ゆっくりと頭を撫でられる。髪の付け根から先にかけてを丁寧に指で梳く動作は、まるでイクリマがセトスの髪を梳く動きを模倣しているかのようだった。奇妙な気恥ずかしさで一層固くなった身体が、もう片方の腕に包まれる。
「そんなこと言っていいの? 僕はまた君へ無理をさせるのに」
吐息混じりの声は怒りを孕んでいるようでもあり、イクリマを気遣っているようでもあった。彼の顔を窺おうにも髪を撫でる手がイクリマの頭を包んでいるから、少し低い声を紡ぐ表情も見えない。だからイクリマには、セトスの胸のうちも見あげることは叶わなかった。
「そのようなこと、気にしないでおくれ。きっとすべて、よい方向に進んでいるのだから」
意図のわからない言葉に、けれどイクリマは迷わず頷く。彼の告げる無理強いはイクリマという個体の適応力の低さに所以しており、セトスが罪悪感を覚えることではないのだから。けれどイクリマのこころからの言葉に、セトスからの返事はない。視線を上げようと僅かに身じろぎをしてみせても、頭をそっと撫でられるばかりだった。
「……うん、そうだね。僕の望む、あるべき未来に」
そうして、たっぷりとした沈黙ののちにようやく小さな声が落ちる。テントのなかでこぼした言葉が掬いあげられたことは些か気恥ずかしく、けれどそれが真実であったため、イクリマは小さく頷く。やがてセトスの両腕がイクリマを抱き締めたから幾許かの逡巡ののち、少しだけセトスの服の端へと触れた。
もう、かつてのように強く抱き締めて守ることは出来ない。セトスはもう、イクリマに守られる幼い存在ではなくなったからだ。多くの覚悟のうえで首領の座を継いだ彼を弱い幼子のように扱うことは、いっそ不敬にすら値する。
だから、不要な庇護は音もなく握り潰す。自分の手のひらと、未練がましく触れた彼の端との間で。
( 月影の誘惑 – 表情も見えない / 吐息混じり / 手探り )
First appearance .. 2024/06/29-08/24@X
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