港の酒場に腰を下ろし、美食と美酒を堪能する。砂漠の生まれである店主が開く店の食事は馴染み深い味が多い一方で、まるで知らない食材が取り扱われてもいるのだ。フォンテーヌの特産品であるという果物の甘酸っぱさに舌鼓を打ち、モンドの蒲公英酒をよく味わう。思考を軽やかにさせる酩酊の心地好さに、セトスはひっそりと笑った。これはいい、そして悪い酒だ。飲みやすさの割にアルコールは軽くないから、爽やかな甘さに魅入られて杯を傾け続ければたちまち酒精の手のひらで踊らされてしまうことになるだろう。
「イクリマ、水はいる?」
「……うん、頂いておこうかな」
セトスともに異国料理を味わっているイクリマの振舞いも些か緩慢なものになっているから、既に酒精のかいなに抱かれてしまっている様子。彼も決して弱くはないのだが、セトスと比べればほどほどに酒に酔う。今宵はセトスのペースに釣られて普段よりもよく飲んでいたから、明晰な思考に雲がかかり始めたようだった。
通りかかった店員へ水と追加の食事を頼み、ぼんやりと港を眺めているイクリマの横顔を観察する。太陽が沈み、夜が港を包み込む。それでも街灯と灯台のお陰で、街全体が暗闇に呑まれることはない。吹き抜ける風には潮が混ざり、知らぬ香りが空気にしっとりと溶けてゆく。それらはすべて、砂漠とは縁の薄い文明だった。
「どう? オルモス港は」
「……そうだな、驚いた。あまりにも色々なものがあるものだから」
スメール唯一の貿易港はシティより一層に、雑然とした喧騒と活気に満ちている。他国の貿易船も多く乗りつけ、近隣国のフォンテーヌと璃月だけでなくモンドや稲妻からも商人たちが訪れているのだ。イクリマをオルモス港まで案内した当初、彼は驚嘆と衝撃でその場に立ち竦んでしまっていた。一日かけて港を散策し、ようやく周囲を見渡す余裕が生まれたらしい。
それでもまだ、雨林の港はイクリマにとって慣れないものなのだろう。彼は異国の酒でこころを和らげてなお拭えない落ち着かなさを、その眦に滲ませていた。
「これも、全然知らないものだ」
「でも、悪くないでしょ」
雨林特有の色硝子を用いたグラスに、自由の国の美酒が注がれている。そのどちらもイクリマにとっては馴染みが薄く、彼はぼやけた瞳でグラスを見つめていた。
言葉が返されることはない。異国文化に対する賛否と好悪を、酩酊した意識では判断を下すことが出来ないからだ。ぼんやりとしたイクリマの前に水差しと空の器が運ばれ、セトスは彼の手から色硝子を抜きとった。
「少しずつ慣れていったらいいよ。それでもし気になるものがあったなら、それを選んでもいい」
「……異国のものを?」
「ああ」
よく冷えた水を代わりに持たせると、長い指が器をそっと包み込む。ゆったりとした動作の稚さにこころをくすぐられ、イクリマの頬を指先で撫でた。酒のせいだろう、赤砂の肌は夜でありながら薄らと熱を孕んでいる。
「それは……ああ、うん」
曖昧で要領を得ない、まるで無意味な相槌。けれどそこには惑いが溶けていたから、イクリマの頬に指ではなく手のひらで触れる。目を伏せてそっと頬を寄せられる、ささやかな動きはどこか官能的でさえあった。
イクリマも幾らかは雨林に馴染み始めたものの、彼の根幹が揺らぐことはない。砂漠の外へ連れだしてなお、彼のこころは砂の海へと回帰する。外の国に対する関心は未だ薄く、恐らくセトスが杯を差しださなければイクリマはモンドの味をくちびるに乗せることはなかっただろう。
「それも、きっと、うん。……でも、おれは」
何にでもなれる、とまで言う気はない。自分たちはどうしたって砂漠の民で、いまは亡きアフマルを弔い続ける、ヘルマヌビスの眷属なのだから。だがそれでも世界を知る権利はあるし、その出自は異国との交流を妨げる理由にならない。
しかし彼の指に世界と自由を握らせてみても、イクリマはそれらを持て余すばかり。セトスも彼へ無理を強いたくはなかったから、どうしたものかと密やかに息吐いた。目的のための行為は、未だ手探りの最中なのである。
「あんまり、好きじゃない?」
「ああ、いや、そういうわけじゃない。そうでは、ないのだけれど」
熱い頬を撫でながら身を引くように囁けば、イクリマは慌てて顔をあげる。途端に風通しのよくなった指の隙間を埋めていると、彼は鈍った思考をなんとか巡らせようと眉間に皺を寄せていた。
「……知らないものを、どうすればいいか、わからなくて」
難しい表情で紡がれた言葉の稚さに、呼気が喉へと絡みつく。自我の薄いイクリマの、そのせいで浮かばない感情への葛藤。それに心臓をざわつかせるのは、彼の真摯な懊悩に対して不謹慎だろうか。
「わからないんだ」
「……ああ」
「わかりたいって思う?」
「……わからない」
それは恐らく、雨林や他国に対しての疑問というだけではない。セトスが彼の内側へ少しずつ注いでいる我欲、夜ごと眦へ落とすくちびる。イクリマという人格に対する外部刺激すべてが、彼のなかに新たな感覚を生みだしていた。
わからない、というのは即ち、贈られたものの質量を認識している証拠に他ならない。我欲の祈りへ首をかしげていたイクリマは本質にこそ辿り着かなくとも理解しているのだ、それはいままでセトスが彼に与えていたものとは異なる箱に入っていることを。
「うん、そっか」
「……すまない」
「謝ることなんて、なにもないんじゃないかな」
「でも、おれは」
セトスとしては、彼のなかに葛藤が生まれているとわかっただけでもじゅうぶんだ。それはまだ種に過ぎない、けれど柔らかな土のなかで育てれば自我に根差した感情が兆すかもしれない。
苦しげにくちびるを噛むイクリマを宥めるようにそこを撫でれば、震える吐息が指にかかる。それを甘く感じるのは、異国の酒精がくちびるに残っているからか。
「大丈夫だよ、イクリマ」
願わくは、それらは自分の注いだもので訪れる変化であるように。彼へ手渡すにはまだ難解な欲は後ろ手に隠しながら、瞳を震わせるイクリマへ笑みを傾ける。
街の喧騒は遠く、水の音と夜の気配ばかりが近い。どこか現実味のない空間もまた、彼のこころの餌にする。
( 一夜の夢 – 何にでもなれる / 吹き抜ける風 / 街の音は遠くに )