ううん、隣の唸り声。それがあまりにも真剣なものだったから、セトスはつい笑ってしまう。そしてそれは、店主も同じ。露店の商品棚にずらりと並んだ商品を至極真剣な表情で見据え続けるイクリマは、ジュートの目から見ても微笑ましい姿のようだった。
「どう、決まった?」
「ううん……色々考えていたら、段々わからなくなってきてしまって……」
セトスが声をかければ弱り果てたように眉が下がり、ふる、と首が微かに左右する。しょげかえった成犬を彷彿とさせる表情に吹きだせば、イクリマが溜息とともに項垂れた。
セトスとイクリマがグランドバザールへ足を運んだのは、日用品の買いだしにきたというだけではない。市場経済の現場に疎いイクリマへそれらを経験させるべく、香辛料を取扱う商人の露店で買い物を試みていたのである。
普段はセトスがジュートと世間話をして入荷された商品を品定めしながら、頭のなかで家にあるスパイスの残量を数え、そして必要な香辛料に目星をつける。そのときは予算と価格も考慮に入れることを忘れない、場合によっては値切り交渉も持ちかける。けれど今日はそれをイクリマに託したところ、彼はスパイスとの睨みあいから膠着状態に陥ってしまったようだった。
買いだしの際に必要な情報はイクリマも持っているはずだ、雨林の拠点においてもキッチンに立つのは主に彼なのだから。しかしイクリマは、買い物を行う際に巡らせる思考の構築に馴染みが薄い。そのため脳内で散開した情報を手繰り寄せられず、その整備方法もわからなくなってしまったのだろう。
「ゆっくりで大丈夫。まずは必要なもの、買いたいものを考えてみて」
「う、うん」
ジュートからは露店への長居も許可を得ているから、思考を組み立てる道筋をひとつずつ伝えてゆく。長い指をくちびるに添えてイクリマが考えだしたところで、賑やかなバザールの内側に一等華やかな声が響きわたった。
「こんにちは、ジュートさん! ふたりもお買い物にきてたんだね、こんにちは」
明るく弾んだ、どこか甘い声。ひかりを求めたパティサラの蕾が花開くような、ごく自然でありながら目を惹く柔らかな彩り。セトスも当たり前に視線を向け、そして彼女へ笑みを向けた。
「やあやあ、こんにちはニィロウさん。君も買い物かい?」
「うん、カレーに使うスパイスがなくなりそうなの。あとは、ジュートさんのタフチーンがまだあったらいいなあって」
ズバイルシアターきっての華は、そもそもスメールシティの花である。舞台に立つ彼女の優美さは語るまでもないが、街娘としてのニィロウもまた素朴に愛らしい。はにかみながらも甘えて窺うような仕草に、ジュートはその目元を緩ませて笑った。彼女が幼い頃から親交の深い商人にとって、ニィロウは娘や妹のようなものなのだろう。
「よかったなニィロウ、タフチーンなら最後の一個が残ってるぞ。すぐ包むから、ちょっと待っててくれ」
「やったぁ! ありがとうジュートさん!」
香辛料とともにそれらを使った料理も提供しているジュートはその場で手際よく料理を包み始め、ニィロウは大きな瞳を輝かせながら無邪気にはしゃぐ。隣で眺めているだけでも伝染する幸福にくちびるをほころばせていると、ニィロウはセトスたちへと視線を移した。
「ふたりはなにを買いにきたの?」
「うん、イクリマにスパイスを選んでもらおうと思ってね」
タフチーンとスパイスを待つ間の世間話に頷きながら隣を少し見あげれば、イクリマは案の定眉を下げて困ったように笑っている。「ただ、どのスパイスを買えばいいのか、段々わからなくなってしまって」素直な彼の白旗に、ニィロウはくすりと笑みをこぼした。
「それならまずは、作りたいごはんを考えてみたらいいと思うな。ほら、カレーとシャワルマサンドだったら使うスパイスが変わるでしょう?」
「……確かに」
ニィロウのアドバイスを受けてはっとしたイクリマに、セトスの顔が覗き込まれる。「今日はなにが食べたい?」それがあまりにも自然な振舞いだったから、セトスは笑うべきか呆れるべきか一瞬ばかり悩んでしまった。
「じゃあ、イクリマの食べたいもので」
「ううん、そうきたか……」
それまでの習慣と親愛に因り、彼はまずセトスを優先する。けれどセトスとしては、希薄なイクリマの欲を色濃くさせたいのだ。その結果として押しつけあうかたちとなった献立に、イクリマはまた唸り始めてしまった。
「…………それなら、コシャリは?」
「うんうん、いいと思うよ。イクリマのコシャリは、ちょっと辛めなのが美味しいんだよね」
長考の末に弾きだされた答えは、家にある食材も考慮したうえで選ばれたのだろう。彼は制限のない環境下における能動的な選択こそ不得手だが、一定の制限下で条件を満たすことは苦手ではない。つまり、有りもので献立を考えるほうが慣れているのである。
時間をかけて自ら判断を下したイクリマを褒めるように頷けば、彼は安堵したように胸を撫で下ろす。そして恐る恐るといった様子でジュートへ声をかければ、彼は気持ちのいい笑顔でイクリマの注文に頷いた。
献立を決めてしまえば必要な香辛料はその時点で定まるから、スパイスを指差してゆく動きにも迷いはない。横からそっと値札を覗き、価格が高騰していないこともそれもなく確認する。食材の価格相場に関しては、またバザールを散歩しながら教えるつもりにしていた。
「はい、すぐ用意しますので少々お待ちを。ほらニィロウ、お待たせ」
「ううん、ありがとう!」
イクリマの注文を受けながらもニィロウに商品を手渡すジュートの手際を眺めながら、あたたかなタフチーンの包みを受け取って頬を緩ませるニィロウの姿を視界に入れる。彼女がモラを支払いしっかりと包みを抱き締めたところで、イクリマの手にもスパイスの詰まった紙袋が渡された。
「はい、こちらもお待たせしました。毎度あり」
「ありがとうございます。すみません、長々とお邪魔してしまい」
モラと香辛料を交換したのち店主へ頭を下げたイクリマは、紙袋の中身を覗いたのちに首をかしげる。あの、と仄かな呼びかけに、セトスも目を丸くさせた。
「おれ、これ買ってないです」
「ああ、それはおまけですよ。彼から前に聞きました、うちのスパイスを気に入ってくださっていると。試しに使って気に入ったら、今度はぜひお買いあげください」
イクリマが紙袋から取りだした小瓶は、スメールローズの粉末のようだった。未だ雨林を窺う彼が気に入った雨林の味、それはイクリマがシティへ馴染むきっかけになる。その打算めいた願いは望んだ通りに実ったようで、セトスはくちの端をつりあげた。
そうなんだ? うん、だからフィッシュロールも好きなんだ。ランバドさんの、美味しいよねえ。セトスとニィロウが世間話を弾ませる横で、ぽかんとしていたイクリマがやがてその手元に視線を落とす。彼はまじまじと小瓶を見下ろしたのち、その表情を柔らかいものに変化させた。
「……ありがとう、ございます」
それはイクリマが普段から浮かべているものとは違う、稚さの滲む微笑だった。店主からの厚意が嬉しかったのだろうと一目でわかるほど、感情が無垢に浮かびあがる。
「ええ、またご贔屓に!」
無垢な喜びを向けられたジュートが返した声には、客への愛想以上の親しみが溶けている。ニィロウもセトスにそっと顔を寄せると、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「イクリマさんってもしかして、ちょっと可愛い?」
「気づいちゃった? そう、結構可愛いところがあるんだ」
年上の男性へ面と向かって告げる勇気はない、けれど誰かに打ち明けたい。そんな無邪気なこころが溢れたニィロウの言葉に、堪えきれず笑ってしまう。そして彼女に頷けば、ニィロウはまた笑みをこぼした。
「イクリマさんのこと、なんだか神秘的なひとだと思ってたの。でも、こんな一面もあるんだね」
「うん。だからよかったら、また今日みたいに話しかけてくれると嬉しいな。バザールでは特に、なにを買おうかまた悩んでるかもしれないからね」
「うんっ、もちろんだよ!」
他者との交流も控えめで世情に疎いイクリマは、手に入らない異国の花めいた、どこか浮世離れした存在だったのだろう。けれど彼は雨林と共生する方法を模索している、ただの人間に過ぎないのだ。
ニィロウが覚えただろう親しみや、ジュートが浮かべた隣人への親愛の兆し。ようよう生まれた感情の波、それらはささやかながら波紋となって緩やかに広がってゆくだろう。
「じゃあイクリマ、次は青果店に行こう。トマトはなかったよね?」
「ああ。ジュートさん、ニィロウさん、また」
どうかそれが、彼を彼たらしめる楔のひとつとなるように。願いながら雨林の友人たちと手を振って別れ、その手でイクリマの指を掬いとった。
( 隣の花 – 手に入らない / 覗き込まれて / どこか甘い声 )