美しき未来のための日々 - 5/9

 開いていた書籍のちょうど半分を読み終え、そこに薄い栞を差し込む。深い呼吸とともに瞼を下ろし、束ねていた意識を一本ずつほどいてゆく。歩く他人が立てる衣擦れの音、潜められた囁き声。乾いた紙の匂いで肺を満たし、ゆっくりと目を開く。網膜を傷つけない色彩と光量、そこを我が物顔で闊歩する学徒たち。否、ここは確かに彼らの領域だ。異分子は自分自身であるのだと、現状を思い起こす。そうして取り戻した自我を片手に、イクリマはそっと立ちあがった。身体感覚から察するに、そろそろ正午を過ぎた頃だろう。
 知恵の殿堂の内側も少しずつ見慣れてはきたけれど、行く先はやはりわからない。景色に対する漠然とした既視感は結局のところ、具体的な道筋の確認にはなんの役にも立たないのだ。だが建物内を適当に歩いていれば、やがては出口に辿り着く。集約された知識の保管庫としては粗末なほど単純な構造だったが、イクリマにとっては都合がよかった。
 ひとつしかない扉を開き、とりあえず道なりに沿って進んでみる。噴水越しに見えた一際大きな扉からは青空が見えたから、向かう先はそちらのようだった。外へ出れば、坂を下ればいい。それはシティを歩くなかで得た、僅かな知見だ。
「ん? イクリマじゃないか」
 そうして噴水の脇を通り過ぎたところで、低く澄んだ声がイクリマの名前を呼ぶ。教令院において彼の名を呼ぶ存在はそう多くなく、イクリマは緩やかに動かしていた足を止めた。視線を隣に移せば、そこには燃える聖焔の色彩。「ディシアさん」親愛なる砂漠の民の姿に、瞳のふちは自然と撓んだ。
「珍しいな、あんたがこんなとこにいるなんて」
「最近は教令院への用事が多くて。お久しぶりです、ディシアさん」
「ああ、久しぶり」
 麗しき獅子へ深く頭を下げれば、ディシアは軽く笑って首肯を返す。どうやら彼女は教令院の学者を護衛してきた帰りのようで、雇い主らしき人物と幾らか言葉を交わすとすぐにイクリマの傍にまで足を運んだ。
「よかったら昼飯でも一緒にどうだ? いま仕事が片付いてシティに戻ってきたところで、腹ぺこなんだ」
「おれがご一緒していいのであれば、喜んで」
「もちろん、いいからあんたを誘ったんだ」
 ディシアの気さくな誘いに頷き、彼女と並んで教令院をあとにする。足裏を引き留めない床石で滑らないよう注意しながら坂を下っていれば、警護に当たっていた傭兵がひらりと手を振って間もなくその目を丸くさせた。
「イクリマ。今日の昼はディシアとか?」
「ああ、さっきお誘いを頂いて。……ファリド、もしかして待っていてくれたのか?」
 イクリマは普段、教令院を出たあとはそこの警護を務めている馴染みの傭兵にカフェや自宅までの道案内を頼んでいる。今日もディシアに出会うまではそのつもりでいたから、相手もまた同じ心積もりにしていたとしてもおかしくはない。申し訳なさに眉を下げると、彼はイクリマの様子をあっさりと笑い飛ばした。
「そんな顔するなよ、約束してたわけでもなし。こういうのは、お互い都合があったときでいいんだ」
「……ああ。すまない、ありがとう。次はまた、声をかけさせてもらうよ」
 ファリドの笑顔に取り繕った様子もなかったから、告げられた言葉は彼のこころから生まれたものなのだろう。その厚意に頭を下げてから手を振って別れ、ディシアの隣を歩き続ける。視界に映った彼女は微笑をくちびるに携えており、へえ、とこぼれた声も明るさを孕んでいた。
「シティの連中と、うまくやれてるんだな。安心したぜ」
「ううん、どうでしょう……そうだったらいいのですが」
「大丈夫だろ、少なくとも三十人団とは世間話もつるんで昼飯もするんだから。馴染むまではそれも出来ない、そもそも頼る相手がわからない。それは、あんたもよく知ってるんじゃないか?」
 どうやらディシアがイクリマを昼食に誘ったのは、砂漠から雨林を訪れるようになって間もない彼を心配したが故の厚意であったらしい。耳に触れる評判の通り面倒見がよく、懐は深い。同胞からの配慮に身体の内側が心地好くあたたまるのを感じながら、イクリマは彼女の言葉に頷いた。
「ええ、それは確かに。おれひとりだったなら、きっといまも、誰とも喋れなかったでしょう」
「おいおい、そこまで言うか?」
「そこまでのことですよ。まず知らないひとへの話しかけ方がわからない」
 イクリマひとりであったなら、そもそも砂漠を出ることすらなかっただろうけれど。有り得ない仮定のうえで想定し得る状況を告げれば、ディシアに大きく笑われる。経験豊富な一流の傭兵にしてみれば、イクリマの困難もささやかな笑い事に過ぎないようだった。
「成る程、そいつは相当だ」
「お恥ずかしい限りです。……ですから、おれがシティに馴染んでいるように見えたのなら、それはセトスのお陰ですよ」
 だが社会からの孤立は有り得たもので、それが成立しなかったのは偏にセトスが砕いたこころの結果だ。最低限ながらシティの住人との交流を図れるようになったのは、セトスがイクリマのなかにあった疑念を取り除いたからに他ならない。
 友人を紹介する軽やかな声があったからこそ、イクリマは彼らへの警戒心を取り下げることが出来たのだ。三十人団ともシティへ到着して早々にセトスが引きあわせてくれなければ、いまほど親交を深めることは叶わなかっただろう。
「確かにあたしも、あんたのことはセトスに紹介してもらったしな。幼馴染だったっけ」
「はい、彼とは同じ村で生まれ育ちました。小さい頃は特に、ずっと一緒にいて」
「へえ、じゃあ兄弟みたいなもんか」
 イクリマが雨林で得た交友関係は、すべてセトスが起点となっている。それを申し訳なく思うこころがいまも拭えず、ディシアの言葉に苦笑を浮かべた。それはどうでしょう、と思わず呟く。ディシアは不思議そうに目を丸くさせたから、苦い笑みが少しだけ深くなった。
「年はおれのほうが幾らか上ですが、それだけなので。経験も知見も、もちろん交友関係も。セトスはおれよりもずっと豊かで成熟しているから、彼の兄を自称するにはあまりに役不足です」
 いまだって、おれは彼の手を煩わせていますから。自嘲めいた言葉が漏れてしまったのは、砂漠の傭兵と言葉を交わす安心感に気が緩んでしまったせいだろうか。だがそれは事実だ、イクリマがシティで存在するにはどうしたって周囲の手を焼かせることになる。
「ふうん。まぁ、そんなに気にしなくても大丈夫だろ。少なくともセトスは気にしてなさそうだし」
「……そう、でしょうか」
「ああ。あいつと話すと必ずあんたのことが話題に出るけど、いつも嬉しそうに喋ってくるぜ。あんたの世話を焼くのが楽しくて仕方ない、って感じにな」
 けれどディシアはイクリマの苦みも大したことではないというように、あっさりした声で軽く笑う。それに思わず目を丸くさせると、軽いちからで背中を叩かれた。
「自分が気になるならそりゃ改善するしかないけどよ、セトスを気遣って、ってことならあんたの気にしすぎだ。だいたいあんたら、そんなに気を遣う間柄でもないんだろ」
 懸念は懸念でしかなく、それは事実足り得ない。現実主義者の彼女らしい激励に、イクリマはそっと笑みをこぼす。そう、シティにおいて自分たちはただの幼馴染なのだ。それならば、過剰に気に病んでいてはシティに馴染まぬ不自然な異分子となってしまう。
 本来セトスは、イクリマが手を伸ばしても届かない存在だ。手を届かせてはいけない、崇高なる神の愛し子。だから彼の手を煩わせてしまうことがこころ苦しく、未だ彼にその感情を抱く自分自身の罪深さが息苦しい。
「……ええ、そうですね。それならせめて、改めてお礼を言わないと」
「ああ、そっちのほうがあいつも喜ぶと思うぜ」
「ふふ、では今日にでも。ありがとうございます、ディシアさん」
 ただの幼馴染としてあるべき言葉を紡ぐ内側、祈るような思いで頸にかけた縄をそっと引く。ふと首を反らせば視界は快晴の青空に飲み込まれ、太陽と雲だけが浮かぶ天を見つめる。そこに月の影はない、それは夜にしか現れないものなのだから当然だ。
 だがいまの自分は、まるで真昼の月のよう。あるべきかたちを損なう異物でありながら、当然のように空へ坐する図々しい存在。晴天に幻を見出せば、舌のうえに筆舌し難い苦みが広がった。
「イクリマ?」
「すみません、なにも」
 足を止めたイクリマを振り返るディシアに笑みを向け、彼女の隣へ急ぎ足で向かう。それにあわせて、こころも逸る。ああ、早く、早く。月を、夜に戻さなければ。

( 真昼の月 – 手を伸ばしても / なんでもない / 笑い事 )