美しき未来のための日々 - 4/9

 昼食に舌鼓を打ったあと、食後の珈琲を味わいながら思考する。セトスは常日頃からスメール全土を駆け回っているような活発な印象を抱かれているし、そのイメージも大半は事実と一致している。けれど冷静に検討を重ねるべき事柄も、彼のなかには多く存在していた。その思考は雨林の周遊や砂漠の巡視をする足取りとともに巡らせることが多いものの、ときどきは日々の隙間にも侵食する。草神と論議を進めたあとともなれば尚更で、午後の眠気を追い払う珈琲の深い苦味はいまのセトスにちょうどよかった。
「……おい。おい、大丈夫か?」
「ん? ああ、ごめんごめん。こんにちは、タヘル」
「珍しいな、お前がうわの空なんて」
 『沈黙の殿』で話しあうことになるだろう議題の焦点を整理し問題の本質を見据えていた意識は、聴覚への刺激によって中断される。セトスがいつもと同じようにへらりと笑って手を振れば、三十人団に所属する青年は僅かに目を丸くさせた。指の所作で相席を求められ、セトスも笑顔で歓迎する。情報の精査もほとんど終わっていたから、他者の介入にもさしたる問題はなかった。
「ちょっと考え事してただけだよ。僕も自分のカレーに挑戦してみようと思って」
「へえ、いいじゃないか。なら、あとでグランドバザールにも寄ってくか?」
「そうだね、イクリマを迎えに行った帰りに寄ろうかな」
 スメールシティの巡回を行う傭兵にも休息が必要で、いまがその時間なのだろう。眼前の人物が注文したサンドイッチからはスパイスに漬け込まれた肉のジューシーな香りが漂っており、セトスも思わず腹部がくすぐられてしまう。ささやかな食欲を満たすために茶請けのバクラヴァへ指を伸ばすと、タヘルは「そうだ」と声を生んだ。
「あいつ、大丈夫か?」
「イクリマのこと? なにかあったの?」
 サンドイッチを大きくかじった青年の言葉に、セトスは首を捻る胸の内側で瞳を眇める。いまのところ彼の日々に大きな変化は見られない、けれどそれは常にセトスの眼前で起きるとも限らないのだ。神経を僅かに緊張させていることも知らず、タヘルは「なにかあった、っつーか」と呟くと、記憶を探るように少しばかり眉を顰めた。
「あいつって、その、まぁ、世間知らずだろ。で、バザールのどこになんの店があるかもわかってねぇ」
「ああ、うん、まあ」
「それでわけもわからず辿り着いたバザールでふらふら店を覗き込んでるもんだから、まあ普通に売ってるもんを勧められるわけだ」
「それは、まあそうだろうね、バザールなんだから」
「で、勧められたものを断っていいのかもわからず、断り方もわからないときた。この間なんて馬鹿高い絨毯買わされそうになってたんだぞ」
 だが蓋を開けてみればセトスが心配するような異変はそこになく、その代わりに別の問題が生まれている。「俺が間に入って止めたからよかったけどよ」と深く溜息を吐きだされたから、タヘルへこころから頭を下げた。
 研究生の立場を得て知恵の殿堂へ通うようになってから、イクリマは少しずつシティの住人と親交を深めるようになった。未だ知恵の殿堂への道を覚えられないイクリマの送り迎えは基本的にセトスが行っているものの、さすがに昼食までは連れだしてやる暇がない。それにセトスの「お使い」が想定以上に長引いて、彼を迎えに行こうとしたときにはとっぷり日が暮れていたこともある。
 そういったとき、イクリマは三十人団の傭兵に助けを求めるようになった。砂漠出身者の割合が多いエルマイト旅団はイクリマにとって頼りやすい相手のようで、教令院の警護をする傭兵にシティ内の道案内を頼むことが多いのだとか。世間知らずな同胞の稚い相談は彼らの目にも微笑ましく映るのだろう、いまでは彼らが休憩や交代のタイミングで自らイクリマに声をかけては昼食や帰路の同伴を申し出ているほどだった。
 タヘルもそのうちのひとりなのだろう、イクリマの状況を語る声は気安いものだ。だがまさか、そんなことが起きていたとはさすがに考えていなかった。
「ちょっと目を光らせてやったほうがよくないか? このままだとあいつ、妙な曰くのでっちあげた壺でも売りつけられかねないぞ」
「うーん、確かに……。言われてみたら、買い物の方法なんて知らないだろうからなぁ」
 沈黙の殿のなかに互いの所有物を売買する習慣はないし、外へ出る機会の少なかったイクリマは必需品の買いつけに出たこともない。市場というものに触れた経験則に基づいた判断が出来ないのだから、タヘルの目撃した光景は成る程起きて然るべき出来事だったわけだ。
 イクリマを連れてグランドバザールで食材や日用品を買う場面は、いままで幾度となくあった。けれどそれはセトスがバザールの人間との交流がてら済ませていたから、そこでなにが起きているのか、イクリマは把握しきれていなかったのだろう。ランバド酒場やプスパカフェで食事を注文するのと、グランドバザールで店主と世間話をしながら必要なものを選んでいくのは、まったく異なる行為なのだ。
「またふたりで買い物に行くよ、今度は買い物の仕方を教えにね」
「ああ、そうしてくれ。俺たちも巡回中は気をつけとくからさ」
 セトスが苦笑しながら告げれば、タヘルがサンドイッチの最後のひとくちを頬張りながら深く頷く。知らぬ社会に触れるイクリマは危なっかしいが、それを気にかける同胞が多くいることは有難い。これも一種の人徳なのかもね、と心中でなんとも形容し難い感情を舐めて笑った。
「……な、なぁ、ちょっといいか」
「うん? やあやあ、どうしたんだい?」
 そこで不意に――話が終わるタイミングを見計らっていたかのように声が差し込まれ、セトスは軽やかな笑みを隣のテーブルへと向ける。因論派の学生たちが窺うような視線を何度か寄越していたことになど、疾うに気づいていた。
「その、いま君たちが話していたひとのことなんだが」
 それって、知論派の身分証を持った砂漠のひとじゃないか? 恐る恐る紡がれる言葉にセトスが微笑み、タヘルはその瞳に冷たさを孕ませる。
 イクリマがなにかを語ったわけではないだろう、だが同胞であれば彼の内心を察することなど難しくない。教令院で困り果てた末、そこかしこで議論の花を咲かせている学徒ではなくわざわざ三十人団の下まで足を向ける、その無意識の選択の理由に。だから砂漠に生まれた青年は、僅かな警戒心を学生に対しちらつかせたのだ。無意識下の選民思想による無自覚な傲慢がその行動に滲むとき、三十人団がどう動くのかを示すように。
「それがどうかしたのかな」
「いや、その、……もし君の知りあいなら、仲を取り持ってくれないかと」
 そうでなくとも教令院の学生がイクリマに関心を示したのはこれが初めてのことだったから、商人たちの荷運びの手伝いをするときのような心持ではいられない。学生たちの言葉に「どうして?」と首をかしげれば、彼らは返答を押しつけあうように互いに視線を向けあった。
 イクリマは毎日のように知恵の殿堂へ向かい、そこに収蔵された知識を記録している。彼に声をかける機会など幾らでもあるのだから、セトスを間に立たせる必要などないはずなのだ。
「……彼、毎日のように因論派の本を読んでいるんだ。それになにより、砂漠の生まれだろう? それならなにか、生産的な意見交換が出来るんじゃないかと思って」
「でもいつも真剣な表情でいるから、声をかけられないんだよ。話しかけられそうなタイミングも、なかなかないし」
 話を聞いてみれば、結局彼らには勇気がないのだろう。だがそれも無理はない、イクリマが情報を記録するときは意識のすべてをそこに集約させるのだ。その際は他の機能がすべて削ぎ落とされるため、普段の彼が浮かべている柔和な空気は消失する。その無機質な様子への介入には、よほど強い意思がなければ難しい。
「ふぅん、成る程。……それなら、ランバド酒場にきたらいいよ。夜はあそこでごはんを食べることが多いから」
「あ、ありがとう! 助かるよ!」
 思考を巡らせて笑顔で頷けば、学生たちはほっと息吐いてセトスを拝むように頭を下げる。「その代わり、知恵の殿堂にいるときはそっとしておいてあげてね」と添えた言葉に彼らは何度も頷くと、それじゃあまた、と言い残すと晴れやかな表情でセトスたちの隣を通り抜けていった。カフェの扉が開かれ、室内の空気が外からの風に掻きまわされる。
「……よかったのか?」
「下手に断って角が立ったらマズいだろ? 僕が隣にいるほうが、イクリマも安心するだろうしね」
「まぁ、そりゃそうだろうけどよ」
 タヘルの言葉に肩を竦め、冷めてしまった珈琲を啜る。彼の懸念も尤もなもので、だからこそセトスは学生たちを自らの影響が及ぶ範囲内へと誘導した。彼らはイクリマから砂漠の伝承でも聞きだしたかったのだろうが、それは悪手に他ならない。
 砂漠の人間が教令院をどう思っているのか、優良市民の学生は想像もしないのだ。そして彼らは哀れなことに、自らの所属する学派が与える印象すら理解していない。砂海に立ち入る因論派の学者は砂漠の者にとって最たる商売相手であると同時、信仰の一線を踏み越えるようであれば迷いなく赤鷲の餌とさせる肉の塊でもあるのだと。
「見るからにイクリマの苦手な部類だろ、あれは」
「だからこそ、彼らにはわかってもらわないとね。他人とのコミュニケーションで自分たちの要望を一方的に押しつけてちゃいけないってことも、知識を得るためには相応以上の努力と困難が伴うってことも」
 砂漠のなんたるかを真に知らぬ若い学生ともなれば、二言目にはイクリマの地雷を踏み抜きかねない。だからセトスは間に入ることを良しとしたのだ、異なる文化と信仰を持つ相手に払うべき最低限の敬意を世間話のなかで織り交ぜるために。
 大丈夫か、と慮るような声が落とされ、まぁなんとかなるんじゃない、と軽く笑ってみせる。
「安心してよ、三十人団の世話になるような大事にはしないから」
「当たり前だ」
 冗談めかしたセトスにタヘルは大きく溜息を吐き、それと同時にカフェの扉がまた開く。彼の苦い吐息は室内へ吹き込んだ風に揺れ、そのままシティの柔らかな空気へ溶けていった。
 さて、ステンドグラスが煌めかない夜の酒場はどうなるだろうか。カフェに差し込む陽光を色硝子の窓越しに見あげ、セトスは珈琲の底に笑みをこぼした。

( 窓越しの空 – 通り抜けていく / 風に揺れる / うわの空 )