美しき未来のための日々 - 3/9

人気のない砂地を軽く踏む。砂の擦れる音は響かない、砂漠にはいつだって揺らめく砂の声が満ちているから。砂に沈んだ足裏で柔らかな感触を楽しむように、そっとその場で一回転。身体がよろめくことはない、柔らかな砂粒はイクリマの足を支えてくれるからだ。
記憶をなぞりながら足を動かす、心音のリズムでステップを踏む。腕を持ちあげれば、熱を孕んだ風が手首に絡んだ。不可視の亜麻布と戯れるように上半身を動かして、足で砂地に模様を描く。耳の奥から鳴る心地好い旋律にあわせ、最後にその場でターン。さり、と砂を鳴らしたところで、イクリマはようやくひとの気配に気がついた。どうやら、思いのほか集中していたらしい。
「おや、セトス」
「部屋にも書架にもいなかったから探しちゃったよ」
「それはすまない、なにかあったのか?」
「ううん、イクリマの顔を見たくなっただけ」
いつの間にかこの場所に現れてはイクリマを眺めていたらしいセトスの言葉に、少しだけ首を捻ってしまう。最近のセトスは、そういった言葉をよく紡ぐようになった。必要なとき、もしくは気晴らしを求めてイクリマの隣に腰を下ろすことは変わらない。だがそこに添えられる言葉は、イクリマに不可思議な心地を与えていた。
「ええと……そうか」
「うん、そう。……イクリマ、いまもよくここにくるんだ?」
未知の感覚を咀嚼しきれず、奇妙な心持のまま弱く頷く。そんなイクリマの曖昧な態度もセトスはあまり気にしていないようだったから、それが僅かな救いだった。
いまも彼は周壁と小殿の合間に出来たささやかな空白を見あげていたから、その言葉に首肯する。結界のなか、けれど聖殿からは外。剥きだしになった岩壁の高くから陽光の差し込む空間へわざわざ足を運ぶ者はいなかった、セトスとイクリマ以外には。
だからここは、ふたりだけの秘密基地だった。
「ああ、部屋のなかじゃ身体も動かせないからな」
「そうそう、踊りはいつもここで練習してたよね。あと楽器も。リュートなんて、なかでみんなと弾けばいいのに」
「おれは歌も踊りも達者ではないから。未熟な技術の披露は、さすがに気後れしてしまうよ」
人目がないのをいいことに、イクリマはいまもこの空白に身を寄せている。旋律を奏でること、血潮の誘うままに踊ること。それらは砂漠の民の魂に刻まれた第二言語だ、旋律と言葉に差異はない。
それでもイクリマは、読んだ本を記憶するように踊ることは出来なかったから。ときどきこうして、血潮の流れを確かめていた。
「そんなに肩肘張らなくていいと思うけどな。だいたい、踊りに正解はないわけだし」
「ううん、それはそうなのだけれど。伝えられているものは、そのかたちのまま伝えられるようにしないと」
文明が累積した文化のつけた果実であるなら、歌も踊りも、イクリマにとってはすべてが記憶の対象だ。そこにかつて誇った栄華が息衝いているのなら、正しいものを正しく再現出来るように努めたかった。
「イクリマは真面目だね」
「そうかな。好きでやっているだけだよ」
無論、イクリマに課せられた使命はそれほど広範囲に及んでいるわけではない。彼の務めは文書の記録であり、文化の保護を強制された者はひとりとして存在していなかった。砂の血潮が続く限り、それは強いられなくとも紡がれ続けるのだから。
つまりそれはイクリマにとって、趣味と称して差支えのないものだ。セトスの評価に苦笑をこぼしていると、彼はおもむろにイクリマの傍へと踏みだした。
「そのかたちのまま、って言うならさ。踊り以外の「そのかたち」も、知っておいたほうがいいと思わない?」
「ええと、それは……?」
セトスの手がイクリマの指を掬い、胸の前まで緩く掲げられる。絡められた指をおずおずと握り返せば、その腕が不意に、ぐん、と強く引っ張られた。
「う、わっ!?」
「フォンテーヌではこうやって、ふたりで手を繋いで踊るんだって! そういうの、気にならない? 自分たちならどういう風に踊るのかって、僕はやってみたくなるよ」
片手は強く結ばれたまま、もう片方のセトスの手は不意のちからで傾いたイクリマの腰を支えている。まるで抱き締めあっているかのようなのに、足はじっとしていない。セトスのくちずさんだ旋律は耳慣れた砂漠の歌で、聞けば魂は自然と太陽に焦げついた。
鼓動は脈打ち、血潮がざわめく。身体は思考から切り離され、魂に焼きついた拍動に追随する。気づけばイクリマはセトスと手を強く結び、知った旋律と知ったステップで、知らない踊りを真似ていた。
踊り続けてどれほど経っただろうか、やがて足を縺れさせたイクリマが砂地に落ちる。手を繋ぎ続けていたセトスも引っ張られるかたちで膝をつき、肩で息をするイクリマの顔を覗き込んだ。
「楽しかった?」
「あ、ああ……」
せいせいと呼吸を繰り返しながら、満足そうに笑うセトスをそっと見あげる。彼はイクリマと結んでいた手指をほどくとその隣へ腰を下ろし、今度はセトスがイクリマの顔を見あげた。
「歌ったり踊ったりするとき、考えるより感じて動く。自分たちのなかにあるものを身体全部で奏でる、その感覚だって「そのかたちのまま」伝えないとね」
セトスはどこか冗談めかした口調で、笑いながらそう告げる。彼が踏んだステップのように軽やかな声は、イクリマの持ち得ない真理であった。
記憶を第一義としているイクリマのなかで衝動は薄く、血潮の誘いも耳を傾けなければ拾えない。先ほどのように即興で踊ることなど、滅多に出来ることではなかった。だからこそ尚更に、イクリマは文化の記憶を選択したのである。そのほうが、効率的に目的を果たすことが出来るのだから。
「ううん……難しいな、言語を帯びないものって」
「じゃあ、またここで練習したらいい。僕も付きあうからさ」
それでもセトスの提案もまた正しいものであると感じたから感性の保存を検討しようとするのだが、心中で浮かべた想定はいまひとつ現実味に欠けている。言語情報の記憶に特化した反動だろうか、抽象的な非言語情報の理解と関与はあまり得意としていないのだ。イクリマが眉を顰めて唸っていると、ほどけた指が、また結ばれた。
「いいでしょ、イクリマ」
顔を覗き込むセトスの仕草はどこか稚く、イクリマは自然と頬を緩ませる。彼によって望まれた正しさを拒む道理などなかったから、セトスの指を己のそれで握り返しながら頷いた。さて、感性や感覚と称される主観の強い認識は、どのようにすれば再現可能な客観的事実として保管が可能になるだろう。自らの内側を白紙のパピルスとして、そこに綴る文字を考える。
「……ああ、もちろん」
滑らかな書きだしには至らない、けれどその思索には浮足立つような心地があった。守るべき文明の叡智を刻む傍らで、セトスとともに模索したものをイクリマの機能のなかへ組み込むことが出来るのかもしれない。
「いけないことなんて、なにもないよ」
それは間違いなく、イクリマにとって、喜びだった。

( 秘密の裏庭 – またここで / 冗談めかして / 二人だけの秘密 )