美しき未来のための日々 - 2/9

 外の井戸で水を汲みあげ、寝起きの顔をさっぱりと洗う。ときに背骨が震えてしまうほどに冷えた水は、しかし身体に心地好い。豊かな恵みに感謝をしながら、木々で組まれた家の扉を潜り抜けた。スメールシティに設けたセトスの拠点の内側は、すっかり香ばしい匂いに満ち溢れている。
「おはよう、イクリマ」
「ああ、おはようセトス。もうすぐ出来上がるから、少しだけ待っていておくれ」
「はあい。なにか手伝おうか?」
「大丈夫だよ、もう皿に盛りつけるだけだから」
 覗き込んだ先のキッチンではイクリマが朝食の準備を進めており、彼の手元では華やかな彩りが薄焼きのパン生地に包まれている。それに思わず返事をしたのは腹の虫、ぐうと響いた音にイクリマは顔に浮かべた柔らかな表情をほころばせる。そして彼はセトスを手招き、布巾で指を拭うと皿のうえに乗っていたものをひょいと摘まみあげた。
「はい、くちを開けて」
「んぁ」
 長い指がセトスへ差しだしたのは、皮の剥かれたザイトゥン桃だ。たっぷりと蜜を帯びた果肉は丁寧にもひと口大に切り分けられていたから、彼の行儀のよさをつくづく感じさせる。水蜜まで味わおうとイクリマの指先も食んでザイトゥン桃を舌に乗せれば、ひんやりとした果肉の食感がセトスの内側に染みわたった。
「ん、うま」
「これでお前のお腹の虫も、鳴りを潜めてくれるといいのだけど」
「うーん、どうかな。余計に鳴りだしたりして」
 切る直前まで井戸で冷やされていたのだろう冷たさは心地好く、瑞々しく甘い蜜が口内をとろりと包み込む。イクリマは果実の柔らかな食感を得意としていないようだったが、それでも朝食の皿にはザイトゥン桃が乗っているのだ。彼からの配慮に瞳を眇めながらも腹部を擦れば、イクリマはくすくすと小さく笑った。
 じゃあ、急いで作らないと。手際よく具材を包むイクリマが嬉しそうだったから、セトスは「楽しみにしてるね」と声を残してキッチンから身を引いた。彼としては手伝いたいところだったのだが、イクリマがセトスのために食事を作るとき、彼は昔から一等喜ばしそうな顔をする。そこが彼だけの聖域なのだと理解していたから、セトスがキッチンでイクリマと並んだことはない。
 もちろん、いつかはその聖域にもお邪魔するつもりでいるのだが。

 そうしてイクリマの用意したシャワルマサンドに、ふたり揃って舌鼓を打つ。彼の使う香料はセトスがブレンドしたものともまた異なっており、ハッラの実の割合が幾らか少ない。その代わりに乾燥させたスメールローズの粉末が配合されているから、生地に包まれた肉の味が変わるのだ。その清涼感を伴う味も、セトスのお気に入りだった。
「そうだ、イクリマ。今日は僕と一緒に「お使い」してみない?」
 イクリマが小ぶりのシャワルマサンドを食べている間にふたつぶんを平らげたセトスは、ザイトゥン桃に指を伸ばしながら提案する。あまり大きく開かないくちはかじったサンドの咀嚼を優先しているため、言葉を紡ぐことはない。けれどその代わりに小さく首を捻られたから、彼の意図はこれ以上なく明瞭にセトスへと伝えられた。
「本を読むのもいいけど、シティに出るのも悪くないよ。道を覚えるきっかけになるかもしれないし」
 どうして、と動作で問われたから、気分転換だと言葉で答える。雨林の視察だとか、円滑な人間関係の構築だとか、建前としての正論はもちろんセトスのなかにも存在している。だがいまは、正しいものを手に取りたくなかった。論理的な正論ではなく、感情的な衝動を理由にしたかったのだ。情動と衝動を優先した振舞い、その手本をイクリマへ示すために。
「……おれがいると、「お使い」の邪魔にならないか? 道に迷うし、ひとの顔はわからないし、走るのもお前より遅いし、坂道ではすぐにこけるし」
 それでもイクリマが尻込みするのは、セトスを慮るがためだろう。ぽつり、ぽつりと落ちる言葉は確かに事実だったのだが、事実を累積させたとて、セトスはイクリマと同じ結論に辿り着かなかった。
「最近はこけなくなってきたじゃないか。それに、イクリマが僕の邪魔になることなんてないよ」
 正論ではなく所懐を伝えれば、イクリマは僅かに目を見張る。そして彼は、美しい瞳をそっと眇めた。同量の親愛と信仰が混ざりあう、イクリマだけがセトスへ捧げる思慕。自分に捧げられたものなのだから、セトスは両手で以てすべてを受け入れる。
「だから、今日は一緒に行こう」
「……ああ、お前がそう言ってくれるなら」
 そしてもう一度手を引けば、イクリマは柔らかな微笑とともに頷いてみせる。それじゃあ早く支度しないとな、とシャワルマサンドの最後のひとかけがイクリマのくちのなかに消えたから、セトスも残りのザイトゥン桃をぺろりと平らげた。
「はー、ご馳走様でした!」
「はい、よくおあがりました。さあ、片づけてる間にセトスも身支度を済ませておいで」
 セトスが告げた朝食への謝意に、イクリマは深くなった微笑を顔に浮かべて頷いた。長い指はさっさとテーブルの皿を重ねてゆくからセトスが手伝う暇もなく、適当に結わえただけの髪先を片づけの合間にくすぐられる。これにはイクリマの言葉に分があったから、セトスも素直に「はあい」と頷いた。
 そうしてキッチンへ戻る彼の背中を見送ってから、ふと視線を上げて窓辺を見つめる。陽光の差し込む窓際には細い一輪挿しと、そこで蕾をほころばせているパティサラの花。セトスがシティの友人からもらったものではない、それはイクリマのものだった。
 先日、イクリマと知恵の殿堂からの帰る途中のことだった。グランドバザールへ寄って買い物をしていた際、目の前を歩いていた女性が買いこみすぎた荷物の重みに耐えかねて道の端へ屈みこんでしまったのである。それに気づいたイクリマは、そっとセトスの手を引いた。そして彼は、こう呟いたのだ。「あのひと、人手が欲しいのかもしれない」その言葉に、セトスはイクリマの手を強く握り締めた。
 シティの住人は一様に親切でおおらかだ、セトスたちが歩み寄らなくとも必ず誰かが女性に手を差し伸べるだろう。だがイクリマからシティの者へ声をかけたがったのは、それが初めてのことだった。
 だからセトスは彼の言葉に「うんうん、僕もそう思う」と頷いて、溜息を吐いた女性の下へ駆け寄った。イクリマと手分けして女性の荷物を運んだところ、そのお礼にと、バクラヴァとパティサラを贈られたのである。女性は花が好きなのだろう、荷物を運んだ邸宅は色とりどりの彩りに満ちていた。
 砂漠の民が教令院に抱く猜疑心は未だ根深く、イクリマも未だ学徒への苦手意識を拭えずにいる。けれどシティの住人に対しては、彼なりの速度で、彼の思う最良に身を置こうと、そっと相手の様子を窺うようになっている。微弱ながら起きた変化は確実だった、それがこころから喜ばしかった。
 だから、と。毎日水を替えられているお陰で輝く一方の花を見あげながら、そっと願う。
 イクリマの手を引く今日一日が、彼にとっても喜ばしい親交で満ちるようにと。

( 窓辺の祈り – 今日一日が / ぽつり / ふと視線を上げ )