もう神様はいないから:後 - 4/4

 セトスにとってイクリマの存在とは、どの名称も当て嵌め難い。気づけば彼はセトスの隣にいたから、兄のようではあった。だが彼は進んでセトスの世話を焼いては敬うから、兄弟らしい関係には至らなかった。彼に平伏されたわけでもなければ、恭しい言葉遣いで見あげられたこともない。それでもイクリマの瞳には信仰のひかりが灯っていた、彼はヘルマヌビスの跋霊を受け入れたセトスの敬虔な信徒だった。
 幼い頃の記憶の一部がセトスに代わって、彼の思い出を補完したのもイクリマだった。セトスが覚えていないものを彼は覚えていて、セトスに真実の欠片を贈る。そしてそのたび、彼は柔らかく笑うのだ。「大丈夫だよ、可愛いセトス」それは、イクリマだけが紡ぐ祝詞だった。
 高熱に魘されたときは寝ずの看病をしてくれた、意識が混濁したときは彼の手に縋って自我を手繰り寄せた。セトスのこころはイクリマによって守られ、セトスのなかに存在していた僅かな穴も彼の信仰によって塞がれた。だから、強いて言うのなら。イクリマは、セトスの自我の一部だった。自分の一部は、彼という要素で構成されている。
 そう思考すると、未だ消えることのない炎にも納得をすることが出来た。セトスにとっていまの状況は、その右手に左腕を毟られようとしているようなものだ。防衛本能が怒りのかたちを取って表層化したのだと結論づけ、セトスはかつての自室へ足を向ける。
 夕餉も終えた夜深く、普段と変わらぬ過ごし方をしているのであればイクリマは夜の読書に勤しんでいるところだろう。「イクリマ」名前を呼びながら部屋のなかを覗き込めば、案の定彼は柔らかな灯りの下で分厚い書物を読み耽っているところだった。
「セトス、どうかしたのか?」
「どうもしないよ。ただ、髪を梳いてもらおうと思って」
 セトスが呼べばイクリマは文明の吸収もぱたんと止めて穏やかに微笑み、幼い振舞いへ眦をほころばせる。セトスの内側に灯った炎の存在には気がついていないようだったから、ひとまずは軽い安堵をひとつ。イクリマが恣意を正論の影に隠していたように、セトスもまた目的のためには怒りを潜めておく必要があった。
「それくらいなら、いつでもどうぞ。さあ、おいで」
「はーい、お邪魔します」
 セトスがよく腰を下ろすからだろう、ほかのものよりも幾分か上等な絨毯のうえに座り込む。イクリマはその後ろに膝をついて、彼の髪にそうっと触れた。長い指が髪先までもを丁寧に掬いあげて梳るたび、陶酔するような心地好さが心臓を揺らす。ときどき項に触れるイクリマの指の腹は、優しかった。
 髪のすべてが梳かれると、はいおしまい、と穏やかな声がかかる。それにセトスは背後を振り返り、何気ない動作で櫛を包むイクリマの手に己のそれを重ねあわせた。
「ありがと、イクリマ」
「どう致しまして。さあ、もうおやすみ」
 お前の下を訪れる夢が、幸福なものでありますように。微笑とともに告げられる就寝の挨拶は、セトスの夜を守るまじないだ。慈しみと祈りの混ざりあう瞳は一際美しく、セトスはずっと、そのひかりを捧げられていた。
「うん、おやすみ。君の下にも、幸福な夢が訪れますように」
 それは信徒からの敬虔な祈りだ、いままではただそれを受け取っていた。だがその祈りは自分のものだと、漫然とした意識ではなく確かな意思で受け入れる。そのうえで、セトスもまた祈りをくちにした。安眠のまじないを紡いだくちびるで、美しい瞳のふちに触れる。いままでイクリマがセトスに捧げていたくちづけを真似るようにして。
「……ええっと、……うん?」
「僕もイクリマに贈ろうと思ったんだ、いままではもらってばかりだったから。うん、名案だよね。大事な相手のことは、誰だって思い遣るものなんだし」
 イクリマは現実に理解が及んでいないのか、微笑みながらも不思議そうに首をかしげて答えを求めるようにセトスをじっと見つめている。仄かに稚い表情が浮かぶ頬を撫でながらにっこりと笑みを返し、すっくと立ちあがる。繋いだ手はほどいていないからイクリマも引きあげられるように絨毯から身を起こすことになり、そうされてなお彼は、やっぱり不思議そうな表情をセトスに向けていた。
 炎を表に浮かべはしない、けれど行動の起点でそれはいまも燃えている。イクリマが自らを風化させるというのであれば、それを止めるまでのこと。けれど正面から自分の意見を叩きつけるだけでは彼を頑なにさせるだけだから、少しの遠回りをすることにした。
「もう一回する?」
「い、いや、大丈夫」
 清らかな祈りに我欲の愛を返す、敬虔なる信仰へ恣意的な情を贈る。イクリマがやがて切り捨てんとする彼のこころを慈しみ、無価値だと思われているものに正しい意味を灯す。彼が、彼を手放し難くなるほどに。
「そっか。じゃあおやすみ、イクリマ」
「ああ、うん、おやすみ、セトス」
 神はもうここにはおらず、彼を引き留める杭がないというのなら。この手で彼を抱き締めておくよりほかはないのだ。