もう神様はいないから:後 - 3/4

雨林での滞在を経て、砂漠へ戻る。セトスにとっては幾度となく渡り歩いた街道もイクリマには未だ歩き慣れないもので、防砂壁を超えるまではその足取りも覚束ない。彼の足が本来のしなやかさを取り戻すのは、踏みしめる地面が金の海へ変わる頃。砂海こそを帰る場所と定めた人物は、苛烈な環境のなかでこそ柔らかな生命力を取り戻す。
アアル村へ立ち寄り、楽園の住民と一夜をともにする。先日イクリマの語り聞かせた御伽噺は子どもたちの好奇心をくすぐったようで、セトスとイクリマがアアルへ立ち寄れば、彼の両手は村の幼子がすぐさま塞いだ。
セトスも子どもたちとともに日除けの下で砂漠の伝承を紡ぐ横顔を眺めていたかったのだが、村で世話になるための対価をまだ払っていない。キャンディスは決して気にしないだろうが、細々とした村が常に男手を求めていることなど尋ねるまでもないのだ。セトスが商人の荷運びや武具の手入れを手伝えば、夕餉は一層豪勢な食事を振舞われた。
アアルで一泊したのちともなれば、拠点までの距離を詰めることに困難はない。多少の砂嵐など容易く搔い潜って沈黙の殿へ戻り、ふたりを出迎えた同胞たちに土産話を披露する。今回は教令院との協議を目的として雨林へ向かっていなかったから、防砂壁の向こう側のことを尋ねる同胞たちの表情も気楽なものだった。
キャンプの途中で摘んだ色とりどりのキノコは砂漠の民たちに驚かせたし、それらすべて食用なのだと伝えれば好奇心は一層深くなる。調理法を尋ねられ、結果として幾人かの若手によってイクリマが厨房まで連行された。今宵はきっと、砂漠では珍しい夕食が振舞われることだろう。
旅から帰って間もなく炊事をすることになったイクリマはきっと疲れ果てているだろうから、夕食のあとは紅茶を振舞ってもいい。セトスの淹れた紅茶を気に入っていた彼のために、雨林から花の蜜も持ち帰ってきたのだ。
「おや。おかえりなさい、セトス様」
「ただいま、ベトレサばあちゃん」
イクリマが厨房から解放されるまでは武器の手入れでもしていようと自室へ向かおうとしていた足は、耳に馴染む声を受けて動きを止める。柔らかく微笑む老婆に手を振れば、彼女はその瞳を僅かに動かした。
「イクリマは一緒ではないのかしら」昔からイクリマをよく気にかけていたベトレサらしい言葉に、セトスは明るく笑ってみせる。「いまは厨房にいるよ、お土産に持って帰ってきたキノコをみんなで料理してくれてる」そして彼女にも土産話を伝えれば、ベトレサはその顔に刻まれている叡智の年輪を一層深くさせるように微笑んだ。
「そうですか、それはよかった。あの子が、雨林とうまくやれているようで」
セトスの言葉を受けたベトレサが浮かべた表情は、安堵と表現するのが最も相応しい。彼女の目に、イクリマはよほど危うく映っていたのだろうか。セトスが疑問に音を乗せるよりも先に、ベトレサが小さく囁く。ひとの気配が織り成す密やかな喧噪に、小さな声が混ぜられる。
「自分ではお役目を果たせない、と。あの子は、ずいぶん気にしていたんですよ」
「それは、イクリマがひとの顔を覚えられないから?」
「もちろん、それもあります。けれど、それ以外にも」
イクリマは自身を役不足と判じ、雨林の視察と交流は他の者へ交代したがっているようだった。だがセトスへ正式なかたちで進言をしなかったのは、必要とされている彼の役目が代替不可能なものであると理解しているからなのだろう。どれほどセトス個人が望まなくとも、『沈黙の殿』という組織の稼働にはイクリマの絶対的かつ膨大な記憶力が必要不可欠だった。
昇華しきれない歯痒さを、イクリマはベトレサにもこぼしていたらしい。けれど彼女は思いもよらない言葉を紡いだから、セトスは目を丸くさせた。僅かな驚きを呼び水に、ベトレサはそっと目を伏せる。
「あの子は、自分が『沈黙の殿』の未来を歪めてしまうことを恐れていました」
「……どういうことか、教えてくれるかな。イクリマがそう言ったの?」
思わず眉間に皺が寄り、強い声音にならないよう努めながら静かに問い質す。ベトレサはセトスの言葉に肯定も、否定も返さなかった。だがその様子だけで、察するには余りある。一言一句は異なっていようと、彼女が告げた通りの不安がここに落ちたのだろう。
「あの子は誰より信心深い、それはもちろんセトス様もご存知でしょう。ですがそれゆえに、その信仰は『沈黙の殿』の向かうべき未来と重ならない。……それに、セトス様への信心が貴方様の足枷になってしまう、と。そのことを、気に病んでいるようでした」
告げられた言葉に呼吸を失い、意識の端が焼け焦げるような感覚に陥る。激情が衝動的に脳を駆けてスパークし、けれど回路を焼ききる前にそれを鎮める。それでも抑えきれなかった感情は、左手の内側で握り潰した。
「……そっか、イクリマらしい。そんなこと、気にしなくていいのにね」
「ええ、本当に。だから今日のお話を聞いて安心しました、あの子が一歩でも雨林との共生に向けて進みだしたんですから」
その衝動は誰に向けるべきものでもなかったから、ベトレサにも平静を装って笑みを作る。イクリマを慮って息吐く彼女を落ち着かせるように「安心して、イクリマのことは僕も気にかけておくからさ」そう言葉をかけて、それじゃあ、と手を振った。
そうして何事もなかったような振舞いで自室へ戻り、けれど予定通り弓の弦に触れることはない。座り込んだ椅子のうえで髪を乱すように頭を掻きまわし、くそ、と悪態を吐き捨てた。
ベトレサに語られたのは、いかにもイクリマが抱えていそうな不安だ。彼はどこまでも雨林を疎む砂漠の民で、生まれついたその思想は容易く塗り替えられるものではない。イクリマ自身が、自らのその信仰が『沈黙の殿』の方針と一致しないことを気に病むだろうことも想定していた。だから彼の手を引いて雨林まで連れだしたのだ。
わかっていたつもりだった、けれど掬いきれていなかった。砂漠と雨林という単純な対比構造ばかりが意識のなかで肥大化し、彼のなかにある根本的な信仰を見落とした。イクリマにとっての王は往にし烈日だ、けれど彼が祈りを捧げる相手は賢者のなかの賢者であり、神霊をその身に下ろしていたセトスだった。
古き信仰、現実にそぐわない祈り。彼はそれを、セトスの足を絡め取る鎖になると決めつけた。だから突然、尤もらしい理由で以て知恵の殿堂の書物にまで手を伸ばしたのだ。曰く、「おれたちのあるべき未来」のために。彼は、古き祈りを抱き続けるイクリマというこころの風化を選択した。
「ああ、くそ、くそっ……」
謀られた、そう感情が騒ぎたてる。イクリマはセトスに嘘を吐くことがなかったから、開かれている彼のこころに慢心した。確かに彼はいまもセトスに嘘を吐くことこそしなかった、けれど事実を回転させて恣意の幾らかを背面へ追いやっていた。
「心配しなくても、まだまだ覚えられるよ」それはセトスを安心させるような言葉だったが、実際には嗟嘆の一言だったのだろう。「すべて、よい方向に進んでいくのだから」それは所詮、イクリマの思い描く方向性に過ぎなかった。「お前の望む、おれたちのあるべき未来だ」それはまるで『沈黙の殿』と教令院の共生を示しているようだった、無論その意図も含まれてはいただろう。だが彼は言葉のすべてに、自分自身を含めていなかった。それどころか、共生のために自らをそこから間引かんとした。
使命を遵守し続けるイクリマを幾度となく制していたために、イクリマは自身の判断をセトスに差しださなかったのだろう。セトスは間違いなくイクリマの進言を却下する、彼は正しく想定した。けれど頑固な彼は、下した決定を覆そうとしない。イクリマは、古き信仰の断絶を決意した。
正論の内側に編み込まれた真意に気づかなかったのは、間違いなく自分の失態だ。だがそれでも、謀られたことへの怒りが腹の底で炎となる。イクリマの判断は他者や組織を害するものではなかったから糾弾されて然るべきものではない、けれど彼の独り善がりな行動をどうしたって呑み込めないから、握り潰してなお蠢く衝動が薪として炎にくべられた。
深呼吸を繰り返し、焼ききれそうな思考を辛うじて繋ぐ。感情を振りかざすことに意味はない、感情とは行動の起点にあるものであり先端へ配するものではないからだ。だからセトスは、努めて怒りを腹の奥深くへと押し込む。激情を行動の起点、思考の指針とする。
許さないから、と。音もなく、ひとり呟いた。
そう、許さない。セトスからイクリマを奪う者は、彼自身でさえ許すつもりはなかった。