もう神様はいないから:後 - 2/4

 さあ、着いたよ。柔らかく明るい声に相応しく、ふっくらとした空気が頬を撫でる。たっぷりとした日差しは柔らかく、ふくよかな空気が風にたなびくから一層に心地好い。砂漠の乾いた苛烈な空気は馴染み深いが、雨林の瑞々しい空気は新鮮だ。木々の香りに満ちた空気をセトスが大きく吸い込めば、彼に手を引かれ続けていたイクリマがその隣で緩く膝を折る。はあ、と大きくこぼれた吐息にセトスが笑い、ふたりを先導していた青年が苦笑した。
「イクリマ、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、です。ただ、少し、歩きづらくて」
「この辺りは、地面もだいぶ柔らかいもんな……あたしも最初はよく足を取られてた」
 ティナリの問いかけにイクリマは辛うじて返事をするものの、その様子はまるで身ひとつで砂漠へ飛び込んだ教令院の学生のように弱々しい。最近になってようやく石畳の下り坂を安定して下りられるようになったものの、砂漠とも異なる柔らかな地面のぬかるみは、また彼の足を覚束なくさせてしまっていた。
 お陰でイクリマはセトスの腕に寄りかかりながらでなければ碌に歩くことも出来ず、いまも繋いだ手を握り締め続けている。まるで幼子のような成人の姿にも、ガゼルのように優美な足取りで先を進む少女は呆れ顔を浮かべない。溌剌としていながらもどこか控えめな印象を抱かせる少女は軽快に踵を返すと、一定の距離を保ったうえでイクリマの顔を覗き込んだ。
「イクリマさん、進みづらかったらいつでも言ってくれ。歩きやすいところを探して進むから」
「ありがとうございます、コレイさん。あと三回こけたら、そのときはお願いします」
 コレイの気遣いに、イクリマは安堵を滲ませながら微笑する。その表情に普段よりも警戒心が薄いのは、彼女がティナリの教え子だからなのだろう。雨林に属しているとはいえティナル人の末裔という存在は、『沈黙の殿』にとって敬意と信頼を向けるに値する存在だった。
 彼女ならばイクリマを任せても問題ないだろうと判断し、キャンプ地の固い地面で彼と手をほどく。「本当にすまない、ありがとう」眉も肩も落とすイクリマに笑いながら「気にしないでいいって」とその背を叩けば、彼は苦い笑みを浮かべながらも小さく頷いた。
 セトスとティナリがスメールシティで顔をあわせたのが、いまから数日前のこと。グランドバザールで買い物をしながら世間話に興じていたところ、そうだ、とティナリが一際明るい声をセトスに向けた。
 「前にも少し話したキャンプの件、どうする? イクリマに少しは雨林のことを説明出来ると思うよ」その提案を断る理由など、セトスのなかに存在していない。もちろんやるよと間髪入れずに頷いて、雨林においても本の虫と化しているイクリマを知恵の殿堂から連れだすことにした。キャンプに行くよと手を引けば、イクリマは目を丸くさせながらも頷いた。そうして彼を、しっとりと柔らかな空気に包ませたのである。
 広大な砂漠を歩くうえで必要なため、テントの張り方それ自体はイクリマも知っている。コレイの指示に従いながらテントの支柱を立てる動きはそれなりにしっかりとしていたから、寝床作りはふたりに任せることにする。セトスが下ろした荷物のなかからキャンプに必要な道具を引きだしていれば、何気ない立ち回りのなかでティナリが彼の傍にまで足を運んだ。
「別に、すぐわからなくなるわけじゃないんだね」
「ああ、認識障害ってわけじゃないからね。一緒にキャンプをしている最中は大丈夫だと思うよ」
 次にシティで会ったときには、たぶん顔がわからなくなってると思うけど。ティナリに囁くような声音で尋ねられ、セトスも手を動かしながらさらりと頷く。ひとの顔が覚えられない、というイクリマの抱える問題点をティナリに打ち明けたのは、彼がイクリマにとって雨林で信頼出来る数少ない存在だからに他ならなかった。無論それに関しては、イクリマも了承している。
「成る程。本当に単純に、顔が覚えられないんだ」
「うん、そうみたい。だから、もしシティやどこかでコレイとすれ違ったときに気づかないようだったら、フォローしてあげてほしいんだ。イクリマも、それで君の教え子を傷つけるのは忍びないって言ってたからさ」
 まるで患者の診療にあたる町医者のように優しく、動物の観察実験を行っているかのように冷静な様子は、ティナリがただ温厚なだけの人物ではないことを示している。それでも彼はセトス越しに聞いたイクリマの言葉へ、その眦をほころばせた。
「……うん、もちろんだよ」
 顔を覚えることの出来ない相手ではあるが、慮っていないわけでもないのだ。むしろコレイに対してイクリマは、少し珍しいほどにこころを開いた様子さえ見受けられる。コレイの言葉に従って彼女と一緒にテントへ防湿シートを張っている姿を見守るティナリが穏やかな笑みを深めていれば、さわさわとした葉擦れに風を切る羽音が紛れ込む。不自然な風のうねりを耳で拾ったセトスの横では、彼より殊更に聴覚の優れたティナリが己の利き腕をすいと持ちあげた。
 やがてティナリの腕を目がけて、鮮やかな色彩が空を切る。雨林のなかにいてこその華々しい保護色を身にまとった鳥が、豊かな羽をばさりと震わせながらティナリの腕を止まり木とした。
「…………それ、は?」
 テントをひとつ組み立て終えたイクリマが、ふたつめのテントの支柱を片手にその瞳を丸くさせる。その手が支柱を両手で握り締めたから、セトスは素早く彼の手から長い棒を抜きとった。
「迷彩鳥だよ。名前だけなら知ってるだろ?」
「それは、知ってるけれど」
 砂漠から雨林まで伸びる街道は整備されていることもあり、柔らかい草地は広がっていようとも鬱蒼とした木々はやや遠い。そして迷彩鳥はたっぷりと葉を茂らせる大樹の合間で羽を伸ばす生き物だ、イクリマの視界に映る機会はほとんどなかったのだろう。スメールシティにも何羽か生息してはいるのだが、彼のように鈍い足取りではその姿を視認する前に鳥たちは聖樹のより高い位置へと飛び立ってしまっていただろうし。
 そのためイクリマは、生まれて初めて目の当たりにした生物を驚いたようにじっと見つめ続けている。砂漠の民にとって鳥とはすなわち赤鷲であり、獰猛な捕食者だ。迷彩鳥のように色鮮やかでひとを襲う気配のない鳥が信じ難いのか、指先からは警戒の色が消えきらなかった。
「安心して、悪い子じゃないから。ガンダルヴァー村のレンジャーからの手紙を届けてくれたんだ」
「……手紙を、ですか」
「そう、この子たちは賢いから。無暗に周りを攻撃もしないし、簡単な言いつけならこなしてくれる。それこそ、手紙の運搬とかね」
 ティナリの腕に止まった迷彩鳥は足首に手紙を収納するための筒らしきものを提げており、主人の言葉を証明するかのようにくるると小さく喉を鳴らす。一仕事を終えた迷彩鳥を労うようにコレイが木の実を差しだせば、大きな嘴で器用に皮を剥きながら果肉と種子を堪能しているようだった。
「そうだ、イクリマも腕に乗せてみる?」
「っお、おれが、ですか?」
「うん、こういう経験もしておいて損はないだろう? 慣れたら可愛いよ」
 イクリマはぎょっと目を見開いてその身を強張らせているが、ティナリは提案の顔をした言葉を撤回する様子もなく迷彩鳥を瞳で示してみせる。リラックスしたように羽を膨らませてはぺたんとさせる鳥の動きに瞠目し続けている彼は自らで判断を下すことも出来ないようだったから、セトスがその背を軽く押した。
「ほらほら、行った行った」
「せ、セトス、でも」
「大丈夫だって、取って食われるわけじゃないんだから」
「安心してくれ、イクリマさん。こいつは特に肝が据わってて、全然怒ったりもしないんだ」
 セトスの手で前に押しやられたイクリマは相変わらず身構えたままで、極度の緊張状態にある彼を安心させんとするコレイの言葉にも機械的に頷くばかり。「ほら、腕を出して」ティナリの言葉に従う動きもぎこちなく、その顔には困惑と緊張がありありと浮かびあがっていた。コレイが告げた通り、迷彩鳥のほうがよほど泰然とした様子で羽繕いに精を出している。
「腕にちからを入れて、結構重いからね。行くよ……それっ」
「っ……!」
 ティナリが促せば、賢い鳥は軽く跳躍してイクリマの腕に移動する。その衝撃に驚いた腕がぐんと下がったから、セトスが慌てて手を添えた。がくんと大きく揺れた枝にも、確かに迷彩鳥はパニックを起こしもしない。「本当だ、賢いね」セトスが感心したように呟くと、この子はベテランだからね、とティナリが笑った。
「せっかくだから撫でてごらん。嘴の下から耳の横にかけてをくすぐってやると喜ぶよ。爪は立てないように、指の腹で優しくしてあげて」
 腕に鳥を乗せるだけでも精いっぱいなイクリマは、おかしそうに笑うティナリから告げられた言葉へ一層その瞳を白黒とさせてしまう。硬直する姿はまるで脅えているようだが、それが無害な鳥を恐れての瞠目でないことはセトスが知っている。だから彼はイクリマの腕を支える手をほどくと、彼のもう片方の手を掬いあげた。
「ほら、こいつも撫でてもらうの待ってるよ」
「ひぃ……!」
 イクリマに代わって彼の手を動かし、その指を迷彩鳥の頬に触れさせる。柔らかな羽毛に触れただけでイクリマは喉を引き絞ったような悲鳴をこぼし、動かない指を利用するかのように顎や瞳のすぐ横を擦りつける鳥の動きに彼は呼吸さえ止めてしまった。
「……イクリマさん、大丈夫か?」
「っ、や」
 あまりに緊張したイクリマを心配し、コレイが恐る恐るその顔を覗き込む。彼は肺に詰まった息を吐きだすように音を生むと、その指を固定させているセトスを泣きそうな顔で振り返った。
「やわらかい、し、あったかい……」
 そして彼は、まるで恐れるように震えながらそう呟くから。
 おかしくなったセトスは弾けたように笑い声をあげてしまい、限界を間近に迎えていたイクリマの腕に乗った迷彩鳥はティナリにひょいと回収されることと相成った。

 セトスにとってはささやかに賑やかな、イクリマにとっては強烈で衝撃的な体験のあと、彼には休憩を与えながらキャンプの準備を整えてゆく。やがて混乱から解放されたイクリマはティナリについて回りながらキノコの判別方法を教わり、コレイとともに川へ釣り竿の糸を垂らす。釣りたての魚と採ったばかりのキノコの調理に関してもティナリの教えを受けており、キノコの焼き加減をじっと見定める真剣な表情は微笑ましく稚いものだった。
 焚火を囲んで雨林の幸に舌鼓を打ち、食後の一服で身体の内側をあたためる。ティナリが配合したというハーブティーは独特の香りでこそあったものの、ふっくらとした空気に混ざる香りは不思議とこころを和らげた。
 太陽が消え、月が昇る。取り留めのない会話が寝物語に触れたから、イクリマは砂漠で紡がれる御伽噺の代わりに子守歌をくちずさんだ。穏やかで少しのもの悲しさを残す旋律は、起きる意識を眠りのふちにまで呼び寄せる。コレイがあくびを嚙み殺したから、今日はもう寝ようか、とティナリが笑う。張ったテントは全部で三つ。セトスとイクリマは、大きめのテントをふたりで使うことにした。
 就寝の挨拶を交わしてテントへ入ると、梁にカンテラを引っかける。簡易絨毯を敷いた床へ座り込むと、セトスと同じように寝床へ腰を下ろしたイクリマがたっぷりとした息を吐いた。
「疲れた?」
「ううん、そうだな……疲れはしたけれど、楽しかったよ。……あの鳥のことを除けば」
 イクリマはセトスの言葉に微笑んでみせたあと、少しだけくちを尖らせてみせる。どうやら昼間の一件はそれなりに根に持たれているようで、彼にしては感情的な仕草につい笑みをこぼしてしまう。「そう怒らないでよ」とその顔を覗き込めばイクリマはすぐに眉もくちびるもほどくから、結局彼はセトスに甘かった。
「イクリマがあんな顔をすることなんて滅多にないだろ? 昔のことを思いだして、懐かしくなったんだ」
「昔……ああ、お前がはじめておれに駄獣の子どもを抱かせたときのことか。あれだって本当に吃驚したし、恐ろしかったのだから」
 セトスが頻りにイクリマへ迷彩鳥を触らせようとしていたのは、かつても同じような出来事があったからだ。
 まだふたりともが幼かった頃、沈黙の殿からも滅多に外へ出ることのないイクリマをすぐ外のオアシスにまで連れだしたことがある。隠れ里の溜め池ではなく陽光を浴びて煌めく湧水、うねる幹に成るデーツの実、そして無警戒に水辺でくつろぐ駄獣の親子。なにもかもはじめて目の当たりにしたイクリマは瞳を爛々と輝かせ、こわごわとした様子ながらもオアシスの水の冷たさや剥きたてのデーツを喜んだ。
 けれど駄獣の子を抱かせたとき、イクリマは驚きのあまりその場で腰を抜かしてしまったのである。自分の腹のうえでのそのそと動く小さな駄獣に脅えたかのように頬を引き攣らせ、身体を強張らせながらセトスに助けを求めてくる。どうかしたのかと駄獣の子を抱きあげながら尋ねれば、彼は泣きそうな顔でこう言ったのだ。
 そんなに柔らかくてあったかいものを持たせないで。もし潰してしまったらどうするの。
 生きた命はあたたかい、その内側は柔らかい。彼にはそれが恐ろしかったのである。赤鷲のように鋭い爪を持つのでもなく、サソリのように硬い膜に覆われているのでもなく、柔らかさを守ることもせずそれらを剥きだしにする生物の無防備さを怖がったのだ。
 生まれたての赤子を抱いてあやすのは得意なのに、駄獣の子には触れ方がわからなくて泣いてしまう。その姿はセトスのなかに奇妙な充足感をもたらし、いまもこうして思い出の深くに根を張っている。
「……でも、よかった。イクリマも覚えてたんだ」
「そう忘れられないよ、本当に吃驚したのだもの」
 懐かしさに瞳を眇めていれば、イクリマがそっと首をかしげる。髪のふちがさらりと流れて、まるで細い流砂のよう。落ちた髪に見惚れていると、美しい瞳がセトスを見つめた。
「……どうかしたのか、セトス」
「うん? なにが」
「この間から、ずいぶん気にしているようだから」
 おれが、なにを覚えているのか。夜に相応しく小さな声に、セトスは吐息をこぼすような淡さで頷く。気にするに決まってるよ、と言えば不可解そうに眉間へ皺寄せられるから、セトスの胸中に苦く塩辛い感覚がじわりと滲んだ。
「イクリマ、最近ずっと知恵の殿堂で本を読んでるから」
「なんだ、そんなこと。心配しなくても、まだまだ覚えられるよ」
 幾度となく重ねてきた問答なのだ、すべてを語らずともイクリマはセトスの言わんとすることを正しく汲みとっている。彼自身の記憶や人格が脅かされる兆候はないのだと笑うイクリマの言葉は真実だろう、彼がセトスに嘘を吐くことはなかったから。
 だが現状は砂上の楼閣にも等しく、いつ崩れ落ちるかもわからない。今日の出来事でさえ彼のなかから抜け落ちるかもしれないと思えば、蓄積される記録を楽観視してはいられないのだ。セトスが眉を顰めれば、それを慰めるように長い指が伸ばされた。眉間を優しく撫でられる。爪を立てることもなく、指の腹が眉の間を優しくなぞる。
「大丈夫だよ、セトス。すべて、よい方向に進んでいくのだから」
「……いい方向って?」
「もちろん、お前の望む、おれたちのあるべき未来だ」
 だから安心しておやすみ、可愛いセトス。イクリマはそう安寧の夜を祈り、セトスの頬を撫でたあとに彼から指をほどく。眠るためにストールをほどきブーツを脱いだセトスは、先に薄手の毛布を羽織って横になったイクリマを追いかけるようにして彼もまた寝床に身を横たえる。
 カンテラの薄明かりを見あげながら、そういえば、と胸中で独り言ちる。「おやすみ」と告げたくちびるがセトスの額に落ちなかったのは、これが初めてのことかもしれない。