もう神様はいないから:前 - 4/4

 天高くそびえ立つ書棚を見あげ、細く息を吐く。沈黙の殿には過去の文明の遺産がこうして残されており、それらの管理はイクリマの務めのひとつでもあった。この石室に保管された書物、そこに綴られている叡智をひとつとして失うことなく守り続けること。それは彼にとって、生涯を捧げる天命にも等しい。
 けれど、それ以外に抱く祈りがある。セトスが幸福でありますように、幼い頃からただそれだけを願い続けている。
 イクリマは、長くセトスの世話役を務めていた。跋霊を受け入れた幼いセトスがそのために体調を崩せばすべてイクリマが看病し、彼の制御を外れた賢者のちからが暴走したときは制止のために身を擲った。跋霊を受け入れたがゆえに記憶の一部が欠損していると判明したときには、彼の覚えていなかったものをひとつずつ語り聞かせた。そのときから、すべてを覚えていようと決めた。
 神の愛し子への栄光を望んだ、神を受け入れた子どもの安寧を願った。彼を傷つけるものを疎んだ、烈日の遺構を暴かんとする墓荒らしを憎んだように。セトスが怪我のひとつも負わないようにこころがけ、指先に生まれた傷にすら顔を青くさせた。そのせいでバムーンには呆れられ、過保護が過ぎると引き剝がされたこともあった。そのときはずっと落ち込んで、ベトレサにずっと頭を撫でられていた。
 ああ、けれど、この祈りが彼にとっての余分となるのであれば。それは、なくさなければいけないものだ。書棚に手を伸ばし、一冊の本を取る。一言一句違うことなく、中身はすべて覚えていた。けれどそれをまたなぞる、叡智を血肉へ刻み込むように。
 どうせ自分は、やがて未来で消失する。「イクリマ」はいなくなり、そこには生きた機能だけが残存する。そこに到達したら不必要となった信仰も自分とともに消失するのだから、そちらに早足で向かえばいい。
「……もう少しだけ待っていておくれ、可愛いセトス」
 神はもうここにはおらず、罪を裁く者もいないから。自身の頸へ、自分の指で縄をかける。