もう神様はいないから:前 - 3/4

 雨林から砂漠への道を辿る、砂漠から雨林へ伸びている道をなぞるように。多くの植物が群生する大地はイクリマにとってやはり見慣れない光景であり、一度見たはずの景色が真新しい。それらが記憶に引っかかるようになったのは、風に乾いた砂土が混ざり始めるようになってから。キャラバン宿駅に辿り着いて、ようやくイクリマは「ああ」と頷くことが出来た。
 屋台で軽食を取って、防砂壁の向こうへと戻ってゆく。ざらつく砂、荒涼とした岩土、瑞々しさに欠けた土くれは吹きすさぶ風の勢いでへし折れる。大粒の砂土と強い陽光を遮るための外套を早々に羽織った。砂が足首に絡み始める。よく馴染んだ感覚だ。
 アアル村は雨林から拠点へ戻る際の中継地点となる。住人たちの厚意に甘えるかたちで一夜を明かし、振舞われる食事の礼に日々の困難を少しだけ解消した。セトスは水を汲みあげる手伝いに向かい、イクリマは破れた水筒やほつれた絨毯を修繕する。世話になった家の子どもを寝かしつけがてら昔話を語り聞かせる時間は、この旅路のなかで最も幸福な瞬間ですらあった。
 翌日には汲みあげた水をモラと交換し、アアル村から沈黙の殿までの帰路を辿る。日を焼く太陽のひかりは壮絶で、けれどイクリマにとっては、雨林の肌に張りつく空気よりもよほど心地好いものだった。湿度が高い雨林の空気は、それほどまでに馴染みが浅い。
「イクリマって、アアル村のひとたちは覚えられたんだ?」
「ああ、そういえば……そうだな、全員きちんとわかるよ」
 砂地の間を縫うようにして道ならぬ道を進み、かつて民が暮らしていたのだろう住居の名残を通り抜けながらセトスの言葉にゆるりと頷く。彼のいわんとすることは理解出来たから、イクリマは溜息を吐きながら「すまない」と呟いた。
「雨林では、お前に散々迷惑をかけてしまって」
「だから、あれくらい迷惑じゃないからいいって。まぁ、ちょっと意外ではあったけど」
 スメールシティには、およそ一週間ほど滞在した。最たる目的は草神への謁見と協議を行うことであったが、雨林の民を知ることも目的のなかに含まれていた。協力関係を結ぶ相手のことを知らずに手を取ることが出来るほど砂漠の民は傲慢でもないし、雨林を信用してもいない。彼らは本当に、手を結ぶに値する相手なのか。雨林に馴染みのない者から見ても、彼らは危険を孕んでいないと断ずることが出来るのか。それを知るために、セトスだけでなくイクリマも雨林の地を踏んだのである。
「まさかイクリマが、シティの人間の顔を全然覚えられないなんて」
「面目ない……」
 だが雨林へ滞在して三日目、最大の誤算が発覚した。曰く前日出会ったらしい相手の顔を、イクリマはまったく覚えていなかったのである。
 記憶力には自信があった、一度でも読んだ本は一言一句違わず記憶することが出来るのだから。それだというのに、昨日はどうも、と声をかけられた相手が誰だかわからなかった。微笑とともに一礼することでその場は凌いだが、あとでセトスから教えてもらうまで、その人物と前日の記憶がまるで結びつかなかったのだ。
「正直なところ、みんな同じ顔に見えてしまって。肌も白いし、服装もなんだか似ているし」
「ああ、教令院の学生たちは制服を着てるから」
「そう、制服だ。それで余計に、目の前のひとが昨日話した相手のうちどれだったのか、わからなくなる」
 新規刺激に圧倒されて情報の吸収に失敗した可能性も多分に含まれているものの、シティに滞在した一週間で覚えられた顔は結局ひとつとして存在しなかった。それどころかシティの道や景色も思考が整理しきれなくて、目的地に辿り着くことすら出来ない始末。グランドバザールへ向かおうとして失敗し、街の片隅をうろつく自分を見止めた三十人団に保護されたことも一度や二度ではなかった。
「このお役目、おれには大役が過ぎたのかもしれない」
「そんなことないよ。イクリマがきてくれて、僕は楽しかった」
「お前がそう言ってくれるのが、唯一の救いだよ」
 ひとの顔が覚えられないせいで、雨林の視察をするどころではなかったのだ。溜息を深く吐き、慰めるように背を叩くセトスの言葉へ弱く笑う。やがて美しいオアシスが視界に広がり、秘されし神殿の扉が浮かびあがる。そこに手をかざすセトスの背中を見つめながら、イクリマは両指をそっと結びあわせた。
「ただいま」
「おかえり、ふたりとも。雨林は、草神はどうだった」
「初めて顔をあわせたにしては上々じゃないかな、まだ気は抜けないけどね」
 余分な人間が出入りすることのない空間に安堵する。皮膚が強張るほどの乾いた空気、神殿へ篭もる熱に首を垂れる。差し込む陽光に祈りを傾けたのち、振り返ったセトスのために顔をあげた。
「イクリマ、いける?」
「もちろんです、首領」
 肩から下ろした荷はふたりを出迎えた同胞に預け、差しだされた同志の手に自身のものを重ねあわせる。緩やかに腕を引かれながら瞬きをする。意識はそれで、音もなく切り替わる。
「記録を再生します。……クラクサナリデビ、発言。「遠いところ、ようこそおいでくださったわね。貴方がたのお話は、セノから聞いているわ」。セトス、発言。「こちらこそ、丁寧にこんな場を設けてくれたこと、感謝するよ。まずは自己紹介から始めようか」――……」

 雨林での出来事を報告し、今後に向けて話しあう。教令院と協力関係を結ぶうえで必要な条件、協力する範囲と程度、その関係を反故されないための対策と警戒。草神との協議を行った当事者である首領も交えた数人で検討し、ある程度の方向性を固めたところで会議を終えた。
 日が落ちきらないうちにオアシスの湧水で沐浴を済ませ、自室で荷ほどきをする。そうはいっても、イクリマの荷物はさしたる大きさをしてもいない。雨林へ向かう道すがらの対策はなにもわからなくて、すべてセトスに頼っていたからだ。
 弱く息を吐く。寝台に腰は下ろしたが、眠りの精が訪れる気配は遠かった。一週間しか離れていなかったのにも関わらず砂漠の空気は懐かしく愛おしい、雨林の慣れない日々が降り積もったお陰で心身は疲れ果てている。それでも、砂のかいなはイクリマの頭を撫でてくれない。不安にも似た感情が押し寄せて、胸のうちは風に弄ばれた砂絵のよう。ふらりと寝台から立ちあがり、石壁を伝うようにして歩を進める。乱れたこころを、少しでも落ち着かせたかった。
 既に夜も深く、隠れ里の内側は灯りのほとんどが落とされている。それでもここは世界に生まれ落ちてからずっといる場所だ、たとえ両目を潰されたって歩くことは容易いだろう。そうして足を動かすイクリマに、柔らかい声がかけられた。
「イクリマ。どうしたの、そんな青白い顔で」
「……ベトレサばあ様」
 前首領バムーンの世話役を務めていた老婆は、イクリマにとっても親のような存在だ。彼女に多くを学び、また与えられた。そんな人物が穏やかに微笑みながら手招きをしてくれるから、イクリマは踵を返して彼女の傍にまで向かう。いつの間にかイクリマより背の低くなってしまった女性はそれでも幸いなことに健勝で、頬を撫でる手の強さには安堵の息が自然と漏れた。
「ずいぶんと思い詰めた顔ねぇ」
「……そんなにわかりやすかったかな」
「わたしにとってはね。わたし以外はきっと気づかないから、安心なさいな」
 イクリマが抱く恐れもすぐに掬いあげられ、そして穏やかな微笑で撫でられる。「ばあ様には敵わないな」思わずそう笑うと「当たり前じゃない、わたしはあなたのばあ様なんだから」くすくすと笑われる軽やかさに、余分な不安が少しだけ遠ざかったようだった。
「それで、どうしたの。雨林で、なにかあったのかしら」
「……うん。色々あった。お役目もうまく果たせなくて、首領に迷惑をかけてしまった」
 それでも渦巻く感情が鳴りやむことはない。目を伏せながら、少しずつ言葉を落とす。どうやら自分は砂漠の外のことをうまく認識出来ないらしい、と。未だ輪郭の曖昧な人間の顔を思い浮かべようと苦心していると、いつの間にか眉間に寄っていたらしい皺が撫でられた。
「雨林の視察も、これからはおれ以外の誰かが行ったほうがいいかもしれない。おれは旅慣れてもいないし、ひとの顔も覚えられないから、このままだと首領のお役にも立てない」
「でもあなたの務めは、あなたにしか果たせないわ」
「それは、そうなのだけれど」
 イクリマが落ち込むたびにセトスはそれを笑い飛ばしたし、わからないものを目の当たりにして困っていれば必ず手を差し伸べてくれた。その厚意は有難く得難いものだ、けれどそればかりであってはいけない。セトスこそが自分たちの首領であり、彼は捧げるひとではなく捧げられる立場にあるのだから。
 思考をそこまでめぐらせて、臓腑に空気が詰まって止まる。呼吸を失ったイクリマの意識は彼を心配するベトレサの声によって取り戻され、イクリマは努めて呼吸を繰り返したのちにその場へ座り込んだ。太陽を失った石室は、切なくなるほど冷えきっている。
「……雨林に行ったとき、おれたちは立場を公にしなかった。首領もおれも、ただ砂漠からやってきた人間として振舞っていた」
「ええ」
「その「ただのセトス」には、たくさんの友人がいた。楽しそうだったよ、すごく。あんな風に笑う首領、おれ、初めて見た」
 振り仰ぐ太陽はなく、いまここには信仰の対象もいない。神のいなくなった場所で蹲る。
 そう、ここにもう神はいない。ヘルマヌビスの跋霊はもうセトスのなかに存在しておらず、この地に残されたのは偶像だけだった。
「おれには贈ってあげられないものだ、だっておれは彼を「ただのセトス」として扱えない。彼はおれたちの首領で、おれたちの、おれの、神様だから」
 それでも、いまもってなお。セトスは、イクリマにとって信仰だった。祈りであり、希望であり、ひかりだった。ヘルマヌビスをその身に受け入れた、神の愛し子。たとえ跋霊が留まっていなくとも、セトスが賢者の寵愛を受けた事実は揺るがない。だからイクリマは、未だ祈りのすべてを彼に捧げていた。
「……でもそれは、彼にはもう不要のものだ」
「そう、言いきれるものかしら」
 だがそれは、雨林の友として屈託なく笑う彼の顔を歪ませることになるのだと。カフェの中心で多くの者と笑いあうセトスの姿を見て、現実を痛感した。だから老婆の言葉に「言いきれるよ」と笑って頷き、数日前に見た光景を思い起こす。
 イクリマは、セトスがあれほど無邪気に笑うことを知らなかった。自分の信仰のせいで、彼は年相応の青年としての振舞いを阻害されている。その事実を、知ってしまった。
「首領はヘルマヌビス様をその身から下ろして、ひととしておれたちを導いてくれている。なのにおれだけが、未だ彼を神と崇めている。古い汚泥が彼の軽やかな足を絡めとるなんて、一番あってはいけないことだ」
 因習によって『沈黙の殿』という組織が手に入れようとしている変化が阻まれることは受け入れ難い、その因習が自分自身の祈りであったとしても。
 だから、と呟いて、くちびるを噛み締める。自身の信仰を罪と断ずることは、あまりに苦しい。それでも、痛みを伴うことで理解する。いままでそれは、ずっと懸念であり不安だった。けれどこうして第三者へ言葉を以て告げたことで、それは質量を伴った現実としてイクリマのなかに固着する。
「……おれでは、首領のお役に立てない。このままじゃ、おれが『沈黙の殿』を歪めてしまう」
「そんなことないわ。それに、あなたの務めはあなたにしか果たせないものよ。お役に立てないなんてこと、決してないんだから」
 断罪を望むように俯いた頭が、老婆のあたたかい手に抱き締められる。彼女の言葉に少しだけ頷いて、そのまま目を伏せた。髪をゆっくりと梳かれながら、幼子をあやすような声に耳を傾ける。きっと慣れない環境に驚いただけよ、しばらくはここでゆっくりなさい、これからのことはそれから考えたらいいわ。優しい言葉に何度も頷きながら、両手をぐっと握り締めた。