もう神様はいないから:前 - 2/4

 息を吸う、弱く吐く。呼吸を繰り返しながら、一度だけ瞬きをする。自らの内側に宿る感覚を、瞬きのひとつで切り替える。張り詰めていた意識の端がぼやけ、めぐる思考の速度が落ちる。静謐な空気に満ちた部屋の扉を潜り抜け、イクリマはようやくその身に自分自身の感覚が舞い戻ってきたことを認識した。
 自分の一歩前を歩く人物の背を追いかけるように、見知らぬ世界を通り抜ける。白銀に蒼いひかり、限られた色が幾何学模様を描いてはしんと輝く。それはイクリマが見た雨林のどれとも異なっていたから、真新しい刺激がまたイクリマに迫りくる。脳の奥が明滅するような感覚のなか、機械的に足を動かす。重厚な扉が開いてロビーらしき場所に出ると、その歩みが止められた。
「はあ、緊張した! イクリマは大丈夫だった?」
「おれも緊張しっぱなしだった。今日話したこと、全部頭から飛んじゃいそうだ」
「またまたぁ、君に限ってそれはないだろ」
「それくらい緊張した、ってことだよ」
 セトスが足を止めたからイクリマもその場に留まり、大仰な振舞いをしてみせるセトスの無邪気な表情にようやく肩から余分なちからが抜け落ちる。それでも指先にはまだ緊張が残っていたから、それを解きほぐすように自身の指同士を握りあわせた。
 『沈黙の殿』と雨林が手を組むべく草神へ謁見を果たし、交わすべき言葉を交わしたのが数分前の出来事だ。話に聞き及んでいた通り知恵の神は聡明で、砂漠の民がその身に飼う感情も理解したうえで協力の条件を提示した。詳細の決定と両者の合意には協議を重ねる必要があるけれど、七執政の一柱との対面としては上々の結果だっただろう。それもすべてセトスの功績であり、イクリマは彼の背後でふたりの問答へ耳を傾けていたに過ぎなかったが。
 だがなんにせよ、今回の大役は無事果たすことが出来たのだ。安堵と脱力に笑みをこぼしあっていれば、ふたりの謁見に立ち会っていた人物が微かにその表情をほころばせた。
「ふたりとも、今日はお疲れ様。ここまで足を運んでくれたこと、改めて礼を言おう」
 その声が注がれたから、イクリマはほんの少しだけ背筋を伸ばす。動かした瞳の先には雷光の如き白の髪と、太陽を嵌め込んだような瞳。雨林では大マハマトラと呼ばれる存在に、イクリマはそっと首を垂れた。
「いいえ、セノ様がそのように仰る必要はありません」
「……イクリマ、その敬語はやめないか? セトスを見てみろ」
「なんだよ、僕もイクリマみたいに敬ってあげようか?」
「いらん、と言ってるんだ」
 セノはイクリマの一礼に眉をひそめてはセトスとじゃれあっているが、彼の言葉に頷くのも難しい。セノのなかには、他ならぬイクリマの信仰が宿っているのだ。彼と同じ立場にあったセトスのように気安く振舞ってみせるなど、一信徒でしかない身にはあまりにも畏れ多い暴挙。けれどセノの言葉に首を振ることも出来ずに目を伏せていると、その瞳をセトスが覗き込んだ。
「あんまり仰々しく喋ってると、ここではちょっと不自然かな。セノさん、とかでいいんじゃない? なんせ彼は大マハマトラだ、それならおかしくないと思うよ」
 どうすることも出来ずにいたイクリマに救いの手が差し伸べられ、セトスの言葉に淡く頷く。敬称を和らげることには抵抗感があったものの、セトスが告げた通り雨林のなかで自分たちの存在を不自然に浮かびあがらせてはいけないのだ。その不自然さが異物となってしまったら、それは砂漠にも、セノにも被害が及びかねなかった。
「では、セノさん、と」
「……まぁ、いいだろう」
 セノは未だ顔に不服を滲ませていたが、溜息とともに頷くことでイクリマの態度に譲歩する。ありがとうございます、と頭を下げれば、だからそこまでしなくていい、と曲げる身体を堰き止められた。
「このあとは、なにか予定があるのか?」
「適当にどこかで昼ごはんを食べたら、イクリマにシティを案内するつもり。もう何日かは雨林にいる予定にしてるよ」
 セトスの言葉にイクリマもそっと頷けば、そうか、とセノが瞳のふちを僅かに緩ませる。雄弁な瞳は礼節と好意に満ちており、彼はさらりとその手を差しだした。
「それなら、昼食は俺たちと一緒に食べないか。カフェでティナリと待ちあわせをしてるんだ」
「へえ、彼もシティにきてるんだ。それはいいね」
 セノの友人であるというティナルの末裔もまた、イクリマの記憶に新しい。その名を聞いたセトスは明るい表情で瞳を輝かせたから、雨林の友人との邂逅が喜ばしいのだろう。イクリマはバムーンが存命していた頃に顔をあわせて以来ティナリとは会っていなかったから、幾らかの緊張が指に走る。けれどせっかくの誘いをイクリマだけが断る理由もなかったから、セトスの隣で彼もまた頷いた。

 そうして導かれるがまま教令院をあとにして、雨林の頭脳とシティを繋ぐ坂を下る。滑らかで凹凸のない坂は、イクリマにとってはやはり歩きにくいことこのうえない。下り坂を滑り落ちないよう爪先へ体重をかけながらゆっくり足を動かしていれば、その身体を支えるように左手を掬われた。
「大丈夫?」
「ああ、たぶん……。すまない」
「いいよいいよ。ほら、それより足元」
 セトスの手が申し訳なくも有難く、彼の手にも体重を預けながら辛うじて坂を下りてゆく。平地に辿り着いただけで僅かな達成感を覚えながらセトスの手を離し、ありがとう、と小さく笑った。気にしないでと、セトスはいつもと同じように笑みを返す。
「そうか、イクリマはあまり外にも出たことがなかったんだったか」
「お恥ずかしながら。砂漠に出ることはもちろんありましたが、他のものに比べたら、おれはずっと中にいました」
 イクリマの足元が一々覚束ないのは、雨林の大地に不慣れというだけではない。そもそも彼は日がな一日石室のなかで本を読み耽っては書物の管理を行っていたため、元よりセトスや他の同胞ほど頑強な脚をしていないのだ。
 砂漠から雨林へ向かう道すがらも、何度セトスから「僕が担いでいこうか」と提案されたことか。いや大丈夫だと虚勢で以て断っていたが、いまにして思えばその厚意に甘えていたほうが結果としてセトスの負担は減っていたかもしれない。情けないことです、と肩を落とせば、セノに小さく笑われた。
「身体は幾らでも鍛えられるし、環境には順応するものだ。そう落ち込むことじゃない」
「そうそう。イクリマが歩けなくなったら、僕が担いでいくだけだしね」
「ううん、そうならないよう努めるよ」
 歩幅もふたりに比べれば明らかに小さいせいで、目的地までの距離も遅々として縮まない。それでも足を動かし続けていればやがて到着するもので、イクリマはセトスたちの背を追いかけるかたちで知らない扉を潜り抜けた。
 緑のひかりに満ちた場所、室内に入り込む陽光は柔らかい。香辛料の香りとひとの雑音が五感を刺激して、また知らない世界に圧倒される。木製の長椅子から長いフェネックの耳が覗き、音を拾った耳に次いでその顔がイクリマたちを振り仰いだ。
「こんにちは。君たちも一緒だったんだね」
「待たせたな。教令院で用事を済ませていたから誘ったんだ」
「成る程。君とは久しぶりだものね、会えて嬉しいよ」
 ティナリとセノは視線を交わすだけで互いの意図さえ通じあわせたようで、隣に座るセノのために長椅子のスペースを開けながらイクリマを見あげて柔和な笑みを浮かべてみせる。バムーンの容態を診察したときから、その印象は変わらない。彼は柔らかく穏やかで、友好的な人物だった。
「すみません、ご挨拶が遅れてしまい。イクリマと申します」
「うん、ご丁寧にありがとう。僕はティナリ……といっても、僕の名前はもう知ってるか。改めてよろしくね、イクリマ」
 警戒心をほどかせんとする、ごく自然に柔和な態度。最も馴染み深い言語のような心地好さに緊張を緩めながら一礼をして、彼らと向かいあうように木の椅子に腰を下ろす。色硝子の嵌め込まれた窓を横目に、なにを食べようかと話している三人の声へ耳を傾けた。
「イクリマはどうする? 僕が適当に頼んでいい?」
「ああ、お願いするよ。雨林の食べ物は、まだわからなくて」
 食事を頼もうにもメニューを知らないイクリマは首をかしげるほかなかったため、セトスの提案に頼って頷く。なにが食べたい? 肉? 魚? なんでもかまわないよ、お前がおれに食べさせたいものを選んでおくれ。顔を覗き込むセトスへ微笑を返していると、先にメニューを決めたのだろうティナリが長い耳をふわりと揺らした。
「イクリマ、雨林は初めてなんだ」
「うん。だからもしイクリマが困ってたら、よかったら助けてあげてほしいんだ」
「それはもちろん。でも、そうか……じゃあ知らないことも多くて大変だろう。なにせ雨林と砂漠じゃ、食事に使われる食材からして違うから」
 ティナリの言葉にセトスが頷き、彼は極めて友好的な首肯と微笑を浮かべてみせる。そうしてかけられた言葉に、イクリマは小さく頷いた。
「新鮮な野菜や果物は、デーツ以外をくちにしたのは初めてです。それに、キノコも」
「そうだね、キノコは湿度の高いところに自生するから。機会があったら、キノコの見分け方を教えようか。間違って毒キノコをくちにしてしまったら、目も当てられないからね」
 当然ながらティナリは雨林に詳しい様子で、親切心を惜しげもなくイクリマへ差しだしている。その言葉に頷きながらもセトスへそっと視線を剥ければ、彼は興味深そうな様子で長机に肘をついた。
「へえ、それは僕も知りたいな!」
「ああ、もちろんだよ。じゃあ今度、みんなでキャンプでもしない? そのときは僕の弟子も誘っていいかな、コレイって言うんだけど」
「もちろんです。ありがとうございます、ティナリさん」
 セトスが頷くのであれば、イクリマに断る理由はない。深く彼に頭を下げれば、ティナリはおかしそうに笑みをこぼしてから「いえいえ、どう致しまして」とまるで動作を真似るようにイクリマへ頭を下げてみせた。
「……それならイクリマ、雨林全体だけじゃなくシティのことも知りたくはないか」
「ええ、それはもちろん」
「じゃあ、いいものを教えてやろう。シティだけじゃない、七国で流行しているカードゲームだ」
 そこにくちを挟んだのが、セトスとともに注文を済ませたセノである。彼からの恩賜を拒む道理をイクリマは持っていない、彼が授ける知識であればそれはすべて必要なものだ。イクリマがセノの言葉に頷けば、ティナリがわかりやすく呆れた表情を顔に浮かべ、セトスはイクリマの腕を緩く引いてその身を椅子の背もたれに預けさせた。
「あんまり自分の趣味を教え込まないでくれるかな」
「流行を知るのは、世間の一端を知ることにもなるだろう」
 セトスとセノの意見の相違、その理由はわからない。どうするべきかわからずにセトスを見つめれば、彼はやがて溜息を吐きながらイクリマの髪先を掬ってその指に絡めとった。手持無沙汰になったとき、もしくは感情の処理に意識を割いているときに取る、セトスの癖だ。
「うーん……まぁ、いいけどさ。あんまり付きあわせすぎないでね」
「もちろん。お互い暇があるときにしかしないさ」
 やがてセトスの指はイクリマの髪をほどき、セノとティナリが席を交換する。イクリマの正面に移動したセノは見たこともない紙片を取りだすと、それをイクリマの前に並べてみせた。そのカードゲームは規定枚数のカードとダイスを用いる対戦形式のゲームであり、ターン形式のため自身のターンと相手のターンでそれぞれ互いに攻撃を仕掛けてゆくのだという。たとえば、とカードを動かそうとしたところでセトスの指がそれを遮った。どうやら注文していた食事が運ばれてきたらしい。
 セノの説明は中断されることとなり、色とりどりの食卓にイクリマが思わず目を丸くさせる。日常的に用いられている色彩までもが、雨林は砂漠よりも豊かだった。
 瑞々しい葉物を咀嚼し、よく火の通されたキノコをそろりとかじる。香辛料に漬け込んでおく必要がないからだろう、雨林の食べ物は柔らかくて水分が多く、そして少し味が控えめだ。味の好悪よりもそれらの味覚情報の摂取をするように食事を進め、セトスがひとくち大に取り分ける料理を少しずつ食べてゆく。「ちなみに僕はこれが好き」と、薄いパン生地に肉と葉野菜を巻いた料理はそのままひとつ手わたされた。シャワルマサンド、というらしい。
「あれ、お前最近見なかったじゃないか! どこ行ってたんだよ」
「うん? やあやあ、久しぶり。調査は無事に終わったのかい?」
「お陰さんで、なんとかな。お前が色々教えてくれたお陰で助かったよ、じゃなきゃ湿地でなにもかも駄目にするところだった!」
 見知らぬ食事の味を学んでいると、少し遠くのテーブルから声がする。当然ながら、イクリマの知らない雨林の人間たちだ。「ごめん、ちょっと行ってくるよ」セトスの言葉に、行ってらっしゃい、と小さく手を振る。そこに空白が生まれたぶん、離れた席の様子がよく見えた。
 調査結果がどうだった、調査の先になにがあった、とセトスを手招いた人物は自身の冒険譚を彼に語り聞かせている。セトスは楽しそうに耳を傾けては、そんなことがあったのか、君のうっかりじゃなくて? なんて茶々を入れては相手に頭を小突かれていた。
 そうしている間に、また別のテーブルで食事をしていた男が声をかける。おお、ちょうどよかった。お前にこの間話した漁の件なんだがな、と男が切りだせば、なにか進展があったのかい、とセトスの瞳が好奇心に爛々と輝く。カフェの中心に位置するテーブルたちはセトスを中心に、賑わいの渦を大きく広げているようだった。
「……セトスは、雨林に友人が多いのですね」
「ああ。酒場やカフェにあいつがいると、ああしてみんな話しかけにいく。シティの住人は、ほとんどセトスの友人だろう」
 セトスが雨林で交友関係を広げていることは知っていた。『沈黙の殿』が雨林と手を結ぶよりもずっと前からセトスは砂漠にも、雨林にも足を向けては、行き交うひとびとと常に言葉を交わしていた。元よりすれ違う他者との縁を喜ぶひとなのだ、スメールの中心地たるシティでそれらが花開くのはごく自然な成り行きであるようにさえ感じられた。
 そう、知ってはいたのだ。砂漠の外に出ることを良しとしない自分とは異なり、セトスの世界は広く開かれている。知ってはいた、けれどこの目で初めて見た。セトスが、雨林の人間たちに囲まれている姿を。
「それは、なによりです。彼も、とても楽しそうだ」
 元来好奇心旺盛なセトスにとって、ひとの出入りが激しいシティで得られる刺激は心地好いのだろう。相手の話に聞き入っては何度も頷き、ときに自分の話も交えることで更に相手から言葉を引きだしている。その言葉の応酬の間には不必要な余白も浮かんでいなかった、だから彼らは気安く軽快なテンポでその声を飛び交わしているのだろう。
 その軽快な言葉の渦のなか、セトスは活力に満ちた瞳を煌めかせて笑っている。年の近い相手と小突きあったり、大柄な男に頭を掻きまわされたり、交わされるやり取りはすべてが対等なようだった。だからだろうか、セトスが一層楽しげで、無邪気で、年相応の青年らしく見えるのは。
「イクリマも行ってきたらどうだ?」
「……いえ、おれは遠慮しておきます」
 知ってはいた、けれど知らなかった。セトスの、その笑い方を。
 セノの言葉に、イクリマは静かに首を振る。世間知らずな自分がそこに混ざってゆくことを想像すると、華々しい渦は不自然に鈍くなった。軽快なテンポはその心地好いリズムを失い、セトスの顔から無邪気な笑みは消えるだろう。彼はきっとイクリマを慮る、そのせいでいま浮かんでいる伸びやかさはすべて損なわれてしまう。
「大勢のひとと喋るのは、慣れていないので」
 それは、よくないことだと思ったから。イクリマはカフェの奥まった席に腰を落ち着けたまま、そうかと頷くセノへ首肯を小さく返す。
 ひとくちかじったシャワルマサンドは、イクリマの舌にもよくあった。美味しいですねと呟けば、ティナリが別の料理をイクリマの傍へと寄せる。それが好きなら、こっちも好みにあうんじゃないかな。彼の言葉に頷いて、けれど、まだその料理には手を伸ばさなかった。シャワルマサンドだけは、ひとつぶんを贈られたから。