もう神様はいないから:前 - 1/4

 固い土の地面を歩き続けて、どれほど経っただろうか。しっとりと水気を孕んだ空気に包まれながら、鬱蒼と生える木々を脇目に道をゆく。ひとや馬車の往来を重ねるうちに固くなったのだろう足元の感触は、まるで知らないものだった。
 道から外れた先で短く映える草の葉も、岩影に蒸した苔も。書物で得た情報に過ぎなかったものが、現実として目の前に広がっている。五感のすべてが真新しい刺激に包まれ続けているなかで、また新しく、音がする。膨らんだひとの声が重なって、混ざりあった音がざわざわと耳朶の傍を駆け抜ける。不快感に思わず眉をひそめると、微かな変化に気づいた人物がその顔を覗き込んだ。
「大丈夫? イクリマ」
「ああ、大丈夫。色んな音がしていたから、少し吃驚しただけだよ。ありがとう、セトス」
 まるで少年のような見目を持つ人物のこころが砕かれる、その配慮を受け取りながらイクリマは微かに微笑んでみせる。そうでなくとも彼には迷惑をかけ通しているのだ、張れる虚勢があるなら少しくらいは強がっていたかった。
「そっか、じゃあしばらくは落ち着かないかもな。シティはいつも賑やかなんだ」
「そうなのか。早く慣れれたらいいのだけど」
 けれどセトスから告げられた言葉に、イクリマは虚勢の裏で苦い意識をそっと舐める。喧噪の遠い世界で育った彼にとっては、スメールシティの賑わいは既に気が遠くなりそうなものなのだ。入口に立っただけで感じられるひとの気配の多さには、ともすればこの場で卒倒してしまいそう。彼が自身の足で辛うじて立っていられるのは、偏に張った虚勢のためであった。
「人混みに慣れる前に、まずはひと休みしない? あっちに家を借りてるんだ、ちょっとは落ち着けると思うよ」
「ああ、うん。そうだね、賛成だ」
 しかしセトスはイクリマの虚勢も見抜いているかのようにあっさりと笑い、足元の不安定な彼を支えるようにその手を引く。白い肌の民、柔らかそうで丸いかたちの果物が並んだ屋台、美しい絹の服、混ざりあうひとの声。加工された石の敷き詰められた地面、曲線を帯びた鉄製の街灯、屋台を覆う鮮やかな横断幕。知らない世界が押し寄せてくるなかで、セトスの手の温度だけがイクリマの五感に馴染む。彼の指をそっと握ると、その手を握り直された。
 往来で見知らぬひとにぶつかりそうになりながらも石畳をしばらく進めば、喧噪が僅かに耳から遠退く。それに息吐いていれば、小さな邸宅の扉にかかっていた鍵を開錠したセトスが扉を押し開いた。「さあ、ようこそ僕の隠れ家へ」どこか稚気を含んだ声に、イクリマも小さく笑みをこぼす。お邪魔します、と頭を下げながら入った部屋のなかもまた、当然ながら、すべてが知らないものだった。
「イクリマはそこに座ってて。すぐお茶を淹れるから」
「お前にそんなことはさせられない。おれがやるよ」
「でもイクリマ、どこになにがあるかも知らないだろ? だから今日は僕がやるよ、君を長旅に付きあわせたお礼」
 それでもセトスがキッチンへ向かおうとするから追いかけようとするのだが、彼は旅の疲れなど少しも感じさせない様子ですぐさまイクリマを振り返る。そのまま椅子に座らされてしまえば、意固地になることも出来なかった。
「……わかった。すまない、セトス」
「別にいいって、お茶淹れるだけなんだから。ちょっとだけここで待ってて」
 事実、未知の世界と絶えず衝突を果たしている身は疲れ果てていた。足を取られない、柔らかさのない土のうえは慣れれば歩きやすいらしいのだけれど、イクリマにとっては体重移動が難しい。砂漠を進むときのように踏み込んだ先の地面に爪先は沈まないから、勢い余って身体が前に倒れてしまうのだ。今日も幾度となくこけかけては、倒れる寸前でセトスにその身を支えられていた。
 踏みしめる大地が違う、吹く風の感触が違う、漂う夜の気配が違う。なにもかもが違う世界だった、同じ国であるはずなのに。イクリマはキッチンへ向かったセトスの背を見送ったあと、室内を見渡しながら息を吐く。
 砂漠に生まれ育ち、王の遺産を守り続けることを使命とする『沈黙の殿』は、その在り方を大きく変えた。分かたれていたヘルマヌビスの跋霊は統合され、聡明で世界を知る人物が新たな首領の座に就いた。砂漠に隠遁していた身は、雨林と手を結ぶこととなった。数百年前、自分たちの祖先が雨林の悪業を忌避して砂漠へ戻る前と同じように。
 イクリマも、そのために雨林へやってきたのだ。砂漠であれば幾度となく渡り歩いた、けれど防砂壁の向こう側には目を向けたことさえなかった。かつて賢王の文明を凌辱しておきながら、いまになって身勝手にもそれらを掘り起こそうとする、身なりばかり小ぎれいに装った墓荒らし。その悪徳の主と手を結ぶだなんて、考えもしなかった。
 だが、若き首領となったセトスがそれを望むから。ヘルマヌビスの継承者たるセノが、この雨林に坐しているから。瑞々しく植物の生い茂る知恵の国へ、足を踏み入れたのである。
「お待たせ。花の蜜をたっぷり入れたから、疲労回復にも効くと思うよ」
「ありがとう、セトス。……雨林には、花がたくさんあったものな」
「そうそう。砂漠じゃ滅多にお目にかかれない高級品も、こっちじゃ当たり前に売られてる。土地が変わればあるものも変わるのは、当然のことだけどね」
 木組みの家なんて砂漠では考えられない邸宅のなか、キッチンから戻ってきたセトスの厚意を両手で受け取った。花の蜜が入っているからだろうか、カップの中身はイクリマの知るものよりもオレンジがかった色に澄んでいる。イクリマが腰を下ろしているのとは別の椅子を引いたセトスもカップのなかに息をかけ、ゆっくりとその中身を啜っていた。
「……そうだな。雨林には、色んなものがある。お陰で、ずっと吃驚しっぱなしだ」
「ゆっくり慣れていったらいいよ。気になることがあれば、なんでも僕に聞いて」
 雨林は、多くのものに満ちている。多くのひとで溢れている。それが幸福なのか、不幸なのかはわからない。現時点で客観的な判断を下すには、イクリマはあまりにも雨林を知らなかった。思考を緩くめぐらせながら、甘い香りの紅茶へそっとくちをつける。深くまろやかな、舌を包み込むなめらかな甘み。思わず吐息をこぼすと、セトスがにんまりとくちの端を釣りあげた。
「どう?」
「……美味しい。すごく」
「ならよかった。気に入ったなら、また買ってくるよ」
「いいよ、そこまでしなくても。いまもらえただけで、じゅうぶんだ」
 上機嫌に笑うセトスの厚意に微笑みながら、味わうように少しずつ紅茶を飲む。それは雨林へ訪れて、初めて好ましいと感じたものだった。