微睡みのまほろば - 4/4

 鍛冶屋に預けていた剣を受け取り、整えられた刃の検分を済ませたのちに代金を支払って賑わう大通りへ身を委ねる。スメールシティはいつだって明るい喧噪に満ちているから、リーシャはその一粒となるたびに耳の奥からさわさわとした心地を覚えていた。
 夜の砂漠のかいなに抱かれていたリーシャにとって、雨林の大都市はそれまで知っていた景色となにもかもが異なっている。しっとりとした空気は重くてときどき喉が詰まりそうになるし、すん、と鼻を鳴らせば瑞々しくふっくらとした香り。それが朝露に濡れた土の香りなのだと知ったのは、砂のない風を浴びた日のことだった。
 視界は塞がれてしまいそうになるほどひとが多くて、その数だけの声が飛び交うから、まるでそれは大合唱。不揃いな歌に紛れる変拍子を爪先で追いかけるようにして人知れず喧噪と踊りながら、リーシャはぱっくりと大きくくちを開けたようなレグザー庁の門を通り抜けた。『熾光の猟獣』は今宵レグザー庁に一泊し、明日の明朝から砂漠をわたる学者たちの護衛を務める予定となっている。
 きらきらとした扉を開いてなかに入り、知らないひとだらけの建物の端っこで「お邪魔します」。知った顔を探していれば、広間の奥には最愛のひと。リーシャは迷わず彼女の傍へ駆け寄った。
 ディシア、と。生みだしかけた声は、産声をあげることもなく喉の奥。ディシアは真剣な表情でアスファンドと話し込みながらも、ときどき『三十人団』の団員に声をかけられては微笑を浮かべたり小さく手を振ったりすることで答えている。
 それに、ああ、と瞳を眇める。すぐそこにいるディシアを遠く感じたのは、そこにいる彼女が、リーシャの知らないディシアだからだ。
 リーシャを愛する、リーシャの愛するディシアではなく、多くの人間から敬慕を寄せられる凄腕の傭兵。『熾光の猟獣』の一員となってからの日が浅いリーシャにとっては、未だ馴染みの薄い顔。けれどいまの彼女は猛々しき『熾鬣の獅子』としてそこにいて、鮮烈な炎の如き美しさで多くのこころを惹きつけているから。指先が冷たく震える、爪が夜の色に染まる。自分と彼女の世界の分断、それを予期するたびに炎へ夜のヴェールをかけてしまいたい。
 けれど、とリーシャは自らの両手を握り締めた。こころが望んだ通りの振舞いは、ほかならぬディシアを傷つける。彼女はアスファンドを恩人と呼び、『三十人団』のメンバーたちも信頼に値する相手だと言っていたから。ディシアの望まないことをしてしまうことだけは、リーシャの本位ではなかった。
 風砂を浴びたかのようなざらつきをやり過ごし、空虚な両手を持て余す。このままでは両手がしくしく泣いてしまいそうだったから、リーシャはやっぱり、ディシアのすぐ隣にまで身を寄せた。
 肩同士が触れあうほどに近づいても、ディシアとアスファンドはなにも言わない。すなわち、ここで待っていてもいいということ。リーシャはディシアの片腕を自らの両手で抱きかかえると、肩口へ頭を預けながらふたりの声へ耳を傾ける。さわさわ、それは外の喧騒よりも綺麗なハミングめいていた。
「……とりあえずはこんなもんか」
「ああ、サンキュ。ちょっと厳しい依頼になりそうだな、気をつけるよう言っておくぜ」
 ディシアに頬を寄せながら微睡む心地で待ってしばらく、ようやくふたりの応酬に終わりの気配。顔をあげればアスファンドがその眦をたわませて、微笑ましいとでもいわんばかりにリーシャへ目を向けた。
「さて、ずいぶん待たせちまったな。明日の依頼に関してはディシアに伝えといたから、あとで話を聞いてくれ」
「うん」
 アスファンドの言葉に頷いて、それじゃあなと笑う人物へ手を振り見送る。そうするとレグザー庁の広い空間でふたりだけになったから、リーシャはディシアの腕から指をほどいて彼女の顔を覗き込んだ。
「ね、ディシア。わたし、いい子に待ってたわ」
「ああ、そうだな」
「ちゃんと、なにもしなかったわ。いけないことは、してはいけないから」
「……ああ、そうだな」
 リーシャにとっては道理に過ぎない思いの制御をそう誇れば、ディシアは切なげに瞳を眇めて微かに頷く。微笑に薄らと瑕が浮かんだから、リーシャは不安になってディシアの瞳をじっと見あげる。嫌がることをしてしまったのだろうかと彼女の内側を探っていれば、宥めるように眦を指先でくすぐられた。
「……ねえ、ディシア」
「どうした?」
「わたし、ご褒美が欲しいわ。いい子に待っていられたんだもの」
 触れたディシアの指は熱くて、瞳の先から溶けてしまいそう。彼女の熱に浮かされる幸福な空想を密やかに抱きながら、リーシャはディシアに向かって両手を伸ばした。愛しいひとをかいなに抱く、それは世界で最たる喜びだ。
「まったく、あんたは……ほら」
 ディシアはやがて苦笑すると両手を軽く広げてみせたから、リーシャは彼女の腕のなかへ飛び込んで熱い身体を抱き締める。触れた皮膚の温度の違い、砂漠のように混ざりあうことのない身体。それは少しさみしくて、けれどさみしさごと愛おしい。
「リーシャ」
「なあに、ディシア」
「今晩は、おじいたちと飯を食おう。『三十人団』のやつらも一緒に」
 そしたらきっと明日からは、あたしを普通に待っていられる。
 ディシアの言葉は、リーシャにはいまひとつわからなくて。けれどそれは、自分を思ったがための言葉だとわかるから。リーシャはディシアの腕のなかで、彼女を目いっぱいに抱き締めながら、うんと頷く。
 そうして少しずつ、冷たい身体にあたたかい朝露を落としてゆく。

( くちびるに朝露 )


First appearance .. 2023/04/07-10/25@X and Novelskey