微睡みのまほろば - 1/4

 アジトの椅子に腰を下ろして、火種のない暖炉をぼんやり見つめる。見つめるというより、視界に映った光景のどこにも焦点を定めずただ視覚情報を緩く認識している状態。すべての輪郭が僅かにぼやけた世界に浸っていれば、おうい、声をかけられた。
 リーシャがぱっと顔をあげると、目の前に陶器のマグが差しだされる。「ありがとう」リーシャはそれを両手で受け取り、あたたかい湯気に息を吹きかけた。ヒシャムはよくこうして、自分のぶんを淹れるついでに、リーシャにも珈琲を用意してくれる。
「どうしたんだ、ぼんやりして。考えごとか?」
「……うん。考えごと」
「そいつはお前の思考の散歩か、それとも悩みごとってやつか」
「それで言うなら、悩みごとだわ。どうしようかなって思ってるから」
 仕事だとか勉強だとかがないとき、リーシャはたいていどこかでぼんやりと流れるときを見送っている。けれど今回は時間を眺めていたのではなかったから、新入りの様子をまめに気遣う青年の言葉へ小さく頷いた。
「へえ。ちなみにリーシャ、悩みごとは誰かに相談すると解決することがある、ってのは知ってたか?」
「……わたしの悩み、聞いてくれるの?」
「そりゃあもちろん。仲間の悩みを放っておくような薄情者は、うちにはいねぇよ」
 人流も疎らであった故郷から出てきて間もない身は、どうやら外の世界では世間知らずと呼ばれるらしい。リーシャはその立場に該当していて、けれど『熾光の猟獣』の団員たちは彼女の知らない道理をこうしてひとつずつ語ってくれる。ヒシャムの言葉は特に丁寧で、それでも噛み砕きすぎることもなかったから、リーシャにとって心地好いものだった。いま両手で包み込んでいる、珈琲の入ったマグくらいに。
 ありがとう、とまた告げて、悩みの種に音を与える。「ディシアの誕生日に、なにを贈ろうかなって」幸福な意識の占有を明らかにすれば、ヒシャムはなんだか見たことのない顔をした。
「あー……近いもんな、誕生日」
「うん。楽しみ」
 恋人の生まれた日が喜ばしくないはずもなく、リーシャは春が始まるその日を一年のなかで一番愛している。くちびるが僅かにほころぶ、春が花の蕾をほころばせるみたいに。「でもね」けれど今年は喜ばしいばかりでないから、彼女は静かな暖炉を視界に入れながら悩んでいたのだ。
「わたし、いま、モラを持ってるの」
「ああ、お前が自分で稼いだモラがあるな」
「宿駅にも、シティにも、色んなものが売ってるの」
「ああ、旅の必需品から嗜好品まで売ってるな」
 郷里で暮らしていた頃は貨幣と商品のどちらとも無縁だったが、いまのリーシャはそのどちらも知っている。「いまのわたし、素敵だなって思ったものが買えるのよ」その事実が示す道の広がりは、雨林の空気がずんとどこか重いことと同じくらいの衝撃を彼女に与えていた。
「……つまり、プレゼントの選択肢が増えたから、どれを贈ろうか悩んでるんだな?」
 リーシャの言葉を咀嚼したヒシャムの言葉に頷けば、うーん、困ったような唸り声。分厚い陶器のマグを握り締めながら彼のアドバイスを待つのだが、それが降ってくる様子は未だない。「ヒシャム?」首を捻りながら名を呼ぶと、申し訳なさそうな顔を向けられた。
「すまない、俺も女性への贈りものには疎くてな……」
「――贈りもの? なんだヒシャム、気になる相手でも出来たのか?」
 珈琲を飲んだあとだからだろうか、苦い声を拾ったのはリーシャではなく外からの帰還者。「ディシア!」ふたりの声が重なって、次いでリーシャは跳ねるように椅子から立ちあがった。「おかえりなさい」と真っ先に彼女へ駆け寄れば、ただいまの言葉とともに頬を撫でられる。熱の灯った、愛しい指の感触に眦は自然と蕩けた。
「ヒシャムに悩みごとを聞いてもらったの。ディシアの誕生日、なにを贈ろうかなって」
「おい、それを本人に言うのかよ」
 呆れたようなヒシャムの声に、リーシャは再び首を捻る。「言ってはいけないこと?」知らない世間を尋ねれば、彼は複雑な味の香草を噛み分けたみたいな顔で「……いけなくはないが、当日まで秘密にすることも多い」そう教えてくれた。そうなのね、と触れた未知に不思議な心地で頷いたのちディシアを見あげると、空色の瞳が柔らかく眇められる。それはリーシャの好きなかたちのひとつだった。
「ははっ、そりゃいいこと聞いた。誕生日がますます楽しみだ」
「でもわたし、悩んでるの。素敵なものがたくさんあるから」
 ディシアは上機嫌に笑っているが、リーシャにとっては行列のずれた帳簿を直すときよりも難しい悩みごとなのだ。じいっとディシアを見つめてしばし、頬を撫でていた指がそこを離れる。いつまでも扉の傍で立ち話をするわけにもいかない、ということなのだろう。リーシャは暖炉の傍にある椅子へ戻り、まだ複雑な味が口内に残っているみたいな顔でいるヒシャムに目を向けた。彼は左右に首を振る。いましばらく時間が欲しい、ということらしかった。
「それじゃ、めいっぱい悩んでくれよ。誕生日になってリーシャからプレゼントをもらったとき、あたしのことをずっと考えて選んでくれたんだなって、そういうのごと全部もらうからさ」
 一度部屋に戻るのだろう、ディシアはそう告げて眦を溶かすとともにリーシャの頭を優しく撫でる。髪先を梳く指の慈しみは、溶けた眦に滲む甘やかさと同じもの。リーシャはそれに頷いて、ひらりと手を振り廊下へ消えたディシアの後姿を見送る。
「なにを贈ろうかしら。ね、ヒシャム」
「……ハラフも呼んできていいか?」
 注がれた愛がくちびるに滲んだからか、飲んだ珈琲は仄かに甘い。

( ハニー・ナッツ )