夜漠におやすみ - 1/2

 地を踏み締める足の下からは砂の擦れる感触、外套から覗く景色は轟々たる砂礫の嵐。生まれてからずっとそこにある光景には、今更なにがしかの感慨を抱くこともない。吹きすさぶ砂粒に瞳を潰されないようそれらの間を掻い潜る術は、歩くと同時に出来るようになっていたくらいなのだから。ごく馴染んだ感覚のなかに身を置いて、落ちくぼんだ砂漠を進み続ける。
 リーシャが単身で砂漠をわたっているのは、彼女が散歩を日課としているからではない。『熾光の猟獣』の下へ舞い込んだ依頼のひとつが、彼女の手のひらに落とされたからだ。
 旅団へ所属するようになってからの日も浅いリーシャだがそろそろ一人立ちをさせてもいいだろうとは、ディシアやヒシャムから聞いていた。けれど雨林のしっとりと重い空気には未だ不慣れで、密林の散策などは以ての外。だからこそ旅団内では満場一致で、多くはそちらのほうが危険だと目をつりあげる砂漠の任務を託されたのである。
 依頼の中身はなんてこともない、ただの落とし物の捜索だ。ものを失くした位置も細かく割り込まれているから、リーシャの仕事といえば砂漠を少し泳ぐだけ。依頼人が所有物を落としてから依頼をするまでの数日間で吹き荒れた砂を掻き分け掘り起こすくらいのことはするだろうが、それだって大した労力はいらなかった。
「気をつけろよ。砂漠の北のほうで、それなりに大きな勢力の部族が壊滅したらしい。そこを潰した反逆者は、誰かに捕まったわけでもない」
 ただ一点だけ気をつけるよう、そう忠告はされたけれど。ふ、と風砂の隙間で息を吐く。砂漠で誰かが死ぬだなんて、そう珍しいことではない。だってここは、そういう場所だ。世界の果てを先取った地は、命の果てを多く孕んでいる。
 でもきっと、ヒシャムの忠告はそういうことではないのだろう。事実の指摘ではなく、無事の祈願。向けられたからには、果たすべきなのだろうとも思う。リーシャが行商人の護衛に出るディシアへ「行ってらっしゃい」と告げたように、彼女もまた旅団を出る際に「行ってきます」と言ったから。
 さく、ざく、唸る嵐の根元がリズミカルに紋様を刻んでは風に塗り潰されてゆく。砂粒の舞うぱらぱらとした音、寄り集まったがゆえの唸り声。子守唄にも等しい音のなか、風化せんとする岩陰から飛びだす蠍や魔物をときどき薙ぎ払いながら目的の場所へ向かってゆく。
 その途中、道なりを半分ほど過ぎた頃。リーシャの前へ、それは唐突に現れた。
「……うん」
 砂に埋もれる遺跡の傍でときどき見かける、命を持たない三角形。動く熱源を無条件に攻撃する、キングデシェレトの遺産。それとよく似た小さな三角はリーシャの前に飛びだすと、ぴいぴい、不思議な音をあげている。それは遺産が熱光線を放つときの音に近いが、リーシャへ熱を放つ様子はない。ただくるくると回転しながら音を立てる様子は、むしろ有機物的だった。
 一応剣は握るけれども、恐らくこれは警戒に値しないものだろう。そう判断したリーシャが三角形をじっと見下ろしていると、それは彼女から僅かに距離を取る。空中を浮遊したのちに一旦停止、のちに回転しながら鳴き声めいた音。それは言語が用いられていないだけで、リーシャとの対話を試みているようであった。
「そっちに、なにかあるの?」
 尋ねれば、三角形は一層の鳴き声をあげて中空を何度か跳躍する。それは明確な目的を持ってリーシャに関わっているに違いない動きであった。
「あなたは、リーシャを傷つけない?」
 導きではなく、まるで希うような。緊急性の高さを感じさせる三角形の回転へ重ねて尋ねる、すると間髪を入れない「ピッ!」同意の音。だからリーシャは、うん、と頷いて剣の柄から指をほどいた。
「行くわ、そっちに」
 任務の合間で少しの寄り道を決め、何度も宙を跳躍する三角形の飛翔に並んで砂上を駆ける。仮面をつけた魔物を凍てつかせたのち剣で払い、抉れた岩壁を滑り落ちる。遠い未来で風砂に削りきられるのだろう岩土と折れて久しい巨木の隙間、弱った生き物が辛うじて逃げ込めるような空間に三角形は潜り込む。そこで有機物的な無機物は、またぴいぴいと音を立てた。
「……ああ、ブンブン。心配したんだよ、どこに……」
 小さな三角形へ語りかける、ひとの声。目的地に到着したのだとわかったから、リーシャもそっと隙間に自らの身体を差し入れる。どうやら倒れた巨木の皮が表を塞いでいただけらしく、そこを抜けた奥にはおとな数人が身を寄せあえる程度の空間が広がっていた。
「っ、誰」
「その子に呼ばれたの。あなた、怪我をしているのね」
 そこにいたのは、まるで獣のような少女。血と砂土の匂いが染みる空間でリーシャは彼女の傍に膝をつくと、外套のなかから肩にかけていた布袋を落とす。真水の入った容器の蓋を開けると、ちからの入らない指で辛うじて双剣を握ろうとしている人物の顔を覗き込んだ。
「じっとしていて。傷を洗わないと」
「いらない。そう言って、傷口に毒を塗るつもりかもしれないでしょ」
 剥きだしの警戒心は、成る程確かにその通り。小さな三角形は少女を慮るように鳴いているけど、彼女にとってリーシャは何者とも知れないのだから。少し考え、水筒を土のうえに置く。次いで自らの剣で、腕に浅い傷を拵えた。
「なっ……!?」
 滲む血に水をこぼし、ただ洗われただけの傷口を見せる。「はい、大丈夫」それに少女は言葉を失っていたから、その間にリーシャは開いた傷を探すべく身を乗りだした。
 香る血の元はどうやら背中の大きな切り傷であったようで、そこを水筒の中身で注ぎ血と砂を落とす。毒蠍の針ではなく刃物によるものだったし服毒の初期症状も見られなかったから、しびれ止めはいらないだろう。腕や手指が切り落とされてもいないから、氷漬けの応急処置も不要。無言でそう判断を下しながら裂傷のための傷薬を塗って包帯を巻き終えた頃には、少女は牙の行使を止めたようであった。
「はい、おしまい」
 手当ての終了を宣言すれば、小さな三角形がぴぴいと鳴いてリーシャと少女の周囲をぐるぐると回り始める。少女の治療を喜び、リーシャへ謝辞を述べているのだろう。「どういたしまして」そう頷いて余った包帯や傷薬を布袋へ片付けていると、その手首をぎゅっと握られた。
「……どうして、あたしを助けたの」
「その子にお願いされたから」
「でもあなた、エルマイト旅団の人間でしょ。あたしの話、聞いてないわけじゃないよね」
 俯いた少女の弱い声に、リーシャはそっと首をかしげる。彼女のいわんとすることは理解している、けれどそれはリーシャのなかで納得のかたちを取ってはいるわけではなかった。
 タニットを壊滅に追い込んだ部族の新入り、死の間際で警告とともにそう広げられた反逆者の情報。夕暮れと夜の間に滲む空と同じ色の髪を編み込んだ、傷跡を多く持つ少女。リーシャが知っているのは、それだけだ。
「知らないひとは、知らないことに、なにも下してはいけないわ。わたしは、タニットのなにも知らないもの」
 タニット部族の内情を知らないから、真に警戒するべき相手もリーシャにはわからない。耳に届いた警鐘のどれほどが真実であるのかも判別することが出来ないのであれば、それは情報を持っていないのと同義。だからリーシャは目の前の少女のことを、ただの手負いの小動物としか感じられなかった。
「でもその話が本当なら、あなたはとても強いのね。それならここは、ひと休みをするのにちょうどいいわ」
 眦を少しだけ緩め、リーシャは外套を身からほどく。ぱたぱたと砂を落としていれば、からからに乾いた空気が微かに揺れた。
「……ねえ。あなた、名前は?」
「リーシャよ」
「そう、リーシャ。知ってると思うけど、あたしはジェイド。それで、あなたをここに連れてきた子はブンブンって言うの」
 落ちていた顔があがり、リーシャをまっすぐに見つめられる。ブンブン、と呼ばれた小さな三角形はその言葉を肯定するように自転。うん、とジェイドの言葉に頷くと、彼女は腹部の包帯を指でなぞった。
「リーシャ、手当てのお礼をさせて。してもらってばっかりは性にあわないの」
「それなら、護衛をして欲しいわ。落とし物を探しにいく途中だったの」
 ジェイドの申し出は願ってもないものだったから、リーシャはそれを両手で受け入れる。ひとりでだって砂漠をわたるのにさしたる困難は生じない、けれどふたりでいるほうが安全なのは間違いないのだ。彼女のように腕の立つ人物であれば、尚のこと。リーシャの頷きに、ジェイドはくちびるを震わせた。
「……ありがとう、リーシャ」
「ううん。ありがとう、ジェイド」
 そっと寄せられる少女の身体に、リーシャはささやかな笑みを返す。薄暗く閉じた砂漠の隙間に、やがて冷たく乾いた夜が訪れる。