小さく古ぼけた荷車に乗せられた積荷の量は決して多くない、けれど荷車を押すキャンディスを村の民はひとりにしなかった。アアル村の村長、正気を取り戻したグラマパラ、集落に古くから住むひとびと。彼らの誰もがキャンディスへ手を差し伸べようとして、彼女はそれをひとつずつ丁寧に断った。それが彼らの厚意であると理解している、けれどそれを受け取ることが出来なかった。受け取ってはいけないとさえ思った。
それでもやはり、ひとりは危ないからと。周囲の根気強い説得は、思わぬかたちでほどかれる。「ならオレが付いていこう、その間の村はうちの奴らが守っておく。それならあんたらも安心だろう」アアル村へ滞在しているディシアの友人から告げられた言葉だけが、キャンディスの手のひらに残った。
「……よかったんですか。貴方は被害者なのに」
キャンディスに代わって荷車を引くラフマンへ問いかける。彼はほとんど片手で積荷を運んでおり、その事実が僅かばかりキャンディスの胸を軋ませた。
「それとこれとは別の話だ。確かにオレはそいつを許さんだろう、身内を傷つけた張本人だからな。オレはオレの立場から、そいつを許すことはない。……だが、それはオレだけの話じゃない」
そうだろう、と投げられた声音は明日の天候を確認しているかのように軽やかで何気なく、だからこそキャンディスはラフマンの言葉を受け止められる。アアル村の者は誰も彼もがキャンディスを哀れんでいて、だからこそ彼らの厚意を受け取ることが出来なかったのと、同じように。
「許しと弔いは別物だ。そもそも、いちいちそんなことを気にしてたら砂漠でなんて生きていけねぇと思わないか」
「……ええ、本当に」
湿度の高い哀れみを注がれるたび、喉が塞がれるような心地だった。哀れまれるたび、疑問を覚えずにはいられなかった。何故自分は思い遣られて、彼女にはそれが一片も与えられなかったのかと。扱いあぐねて目を逸らされ続けた意図的な無関心は、少なからず彼女の狂気を育む土壌になっていたというのに。
歯痒さと遣る瀬無さは向ける矛先を持たない憤りとなり、あの日からキャンディスを苛み続けている。
キャンディスとラフマンはやがてアアル村の果てで足を止め、底の見えない谷底を見下ろす。暗く深く魔獣が蔓延る孔穴は、暴力の矛先をアアル村へ向けた不届き者の行く末。その手前で留められた荷車のなかには、数えるほどしかない家財が逃げだす気配もなく座り込んでいた。それらはじきキャンディスの手でこの谷底に廃棄され、アアル村から存在のすべてが消失される。そうしてようやく、存在の追放は完遂される。
罪の帰結として故郷を追放されたリーシャが残したものは、幾らもなかった。質素な生活を送るほかなかった彼女は家具も最低限のものしか持たず、娯楽や嗜好はディシアが彼女に贈った装飾品くらい。それも追放に伴いすべて持ちだしていたようだったから、リーシャがアアル村で生まれ育った証拠は、小さな荷車に収まるほどしか存在していなかったのだ。
それがキャンディスには虚しくて、見下ろす空洞が心臓にも生じたような心地になる。彼女はこの小さな世界でこれほどのものしか与えられず、また自分も彼女になにかを与えることが出来なかった。後悔は砂礫となり、砂漠をまた覆ってゆく。
「ラフマンさん、それは?」
「見ての通りだ。弔いには、酒と甘味が必要だろう」
キャンディスが暗い孔を見下ろしている間に、荷車へ微かな振動。ラフマンは廃棄される荷車のなかに小さな酒瓶とナツメヤシキャンディを幾らか乗せ、肩を軽く竦めてみせた。ひとを失うとはどういうことか、それを知る身の言葉にキャンディスはくちびるを震わせる。
キャンディスにとって、またアアル村の者にとって、これは罰の執行に過ぎなかった。けれどラフマンは、それを一貫して弔いと呼ぶ。それが、たったひとつの慰めだった。
「……それなら、私もご一緒させてください」
躊躇と逡巡を繰り返していたキャンディスが、慰めに背を押されて小さな包みを荷車へ置く。「そいつは?」それは日に焼かれた砂のような調子だったから、キャンディスも広がる砂漠を見つめるように返事をすることが出来た。
「幼い頃、村を訪れた貿易商から買ったものです。私は十の頃にはガーディアンをしていたので、欲しいと思ったものを自分で買うことが出来た。……けれど彼女は違った。リーシャは自分で気に入ったものを買うことも出来ず、またそれを買ってくれるひとも、彼女にはいなかったんです」
幸か不幸か、リーシャは欲のない子どもだった。より厳密に表現するならば、その養育環境が彼女に欲を育ませなかった。だからキャンディスがはじめて買った水晶のピアスを見つめる瞳も、アアル村の樹に生るデーツを見つめるときのそれとなにも変わらなかった。
「それに気付いたとき、自分が恥ずかしくなったんです。私はなにをひとりではしゃいでしまったんだろう、と。……それ以来、ずっと仕舞っていたものです」
恥によく似た罪悪感は、けれどリーシャに押しつけて然るべきものでもない。だからキャンディスは終ぞ彼女へ、「欲しいものがあるなら、なにか買ってあげましょうか」と声をかけることが出来なかった。それは好意の表明ではなく、哀れみと罪悪感の払拭にしかならないと理解していたから。
だが、そうしなかった、もう二度とそうすることの出来ない事実が、いまになってキャンディスのこころで化膿している。後悔の砂礫は世界と同一化し、キャンディスのなかで留め置かれることすら許されない。
「苦い思い出だな。だが、餞別としてはグッドチョイスだ」
「そうでしょうか。……そうであれば、いいのですが」
哀悼のなんたるかを知る人物の言葉にキャンディスは祈るような思いで頷き、やがて荷車に手をかける。崖までゆっくりと押して、けれど手を離せばそれらは一瞬。すべては暗く深い砂漠の底へ、砂塵とともに呑みこまれる。
これで本当に、アアル村からリーシャという存在は消え去った。彼女の痕跡はすべて潰え、罪人はアアルの安寧たる眠りと永遠の断絶を果たす。アアル村にはこれまでと変わらない平穏がこれからも続き、失われたものは過去へ流れて風化する。
「……ばいばい、リーシャ」
愛おしさも、後悔も、胸に蔓延る罪の意識さえも。やがてそれらは黄昏の海となり、往くべき場所へ流れ着くのだ。
( 黄昏の海 )
First appearance .. 2023/03/14@Privatter