夜の砂間、黄昏の海 - 1/2

 すべてを終えて『熾光の猟獣』の拠点へ戻ったとき、既に夜は深く更けていた。アジトの内側は静寂に伏しており、ひかりはディシアの手元を照らすカンテラのみ。身内と呼ぶに相応しい相手の誰とも顔をあわせていないことへの言い知れぬ乾いた心地、けれどそれと同時に奇妙な安堵を覚えさえする。相反する感情が天秤の皿にそれぞれ乗って均衡を保っている、凪の真下で砂嵐が逆巻いているような感覚は、ディシアの胸のうちが未だ平静を取り戻せていないことをわかりやすく示していた。
 だが、それも仕方ないことなのだろう。彼女はすべてを失った――否、失っていたすべてを知覚した。一方的に捨て去っていたものが、そののち本当に失われてしまった。突きつけられた現実は、ディシアの強靭な魂に少なからず瑕疵を生みだしていた。
 既に月が中天に坐しているのだ、早々に眠らなければ明日の仕事にも身が入らない。理性的にそう思考しながらも、動く肉体はそこから道を外れてゆく。ディシアが一室の扉をこつこつと叩けば、それは呆れるほど容易に開かれた。
「ディシア」
「リーシャ。……ただいま」
「ええ、おかえりなさい」
 深夜の不用心を咎めるこころも、いまばかりは夜と共寝。ディシアにだけ伸ばされる両腕へ導かれるようにリーシャを抱き締めれば、彼女は幼い喜びとともにディシアを包み込んだ。
 肥大した愛ゆえにそうと知らぬまま凶刃を振るった無垢なる狂気の持ち主は、いまは『熾光の猟獣』で理屈と打算を身に着けている真っ最中。女性慣れしていないメンバーたちもリーシャを連れてきた当初こそ狼狽えていたものの、彼女の稚さが乳幼児のそれと変わりなかったからだろう、いまでは荒くれらしからぬ丁寧さでリーシャに世界の道理をひとつずつ教えていた。
 そこに自らの過去を重ねてしまったのは、ただの感傷だ。けれど今宵はまだその感傷が軋むから、リーシャを抱き締める腕からちからを抜くことが出来なかった。
「ディシア」
 それをほどかせたのは、ゆったりと寄せられた冷たい熱源。リーシャはディシアの手を引くと当たり前の仕草で彼女をベッドへ座らせて、自身も隣へ腰かける。片方の手のひら同士は重ねあわせたまま、片口に頬を寄せられる。ふふ、と満足そうに漏れた笑い声が、ディシアに荷を下ろさせた。
「……オヤジの件、片付けてきたよ」
「うん。やっぱり、大変だった?」
「そうだな。……大変だった、すごく」
 彼女はディシアへ多くを尋ねない。最初に互いが持っていた立場の差、傭兵が雇い主と交わす契約の意味を、リーシャは語り諭さずとも理解していた。けれど、まるでその代わりのように、彼女はとっぷりと更けた夜の安らぎを広げてくれる。ディシアがくちびるをほどく余白を、華奢な腕のなかに必ず抱えていた。
 だから、夜の砂間に幾らかの言葉を落とす。彼女を砂漠から連れだす前から変わらぬ行為を、また夜に繰り返す。砂塵に描かれた今宵の紋様は父の最期と長年にわたる復讐劇の結末、奪い取った故人のささやかな栄誉。最後に数少ない遺品のひとつをリーシャへ見せれば、彼女は両手で仕込み杖を受け取った。
「……砂の匂いがする。煤と、血と、焼けた土の匂い」
「ああ、だろうな。こいつは、オヤジが火を放った建物のなかで見つかったものなんだ」
 傭兵団の一員と呼ぶには綺麗なかたちをした手指が、あどけなく杖に触れては刃を引きだしたり、それに少し驚いてから刀身をしまったり。やがてリーシャは杖の柄に頬を寄せたから、ああ、息を吐かずにはいられなかった。
 クセラが彼女を見たら、なんと言っただろうか。大成した人格者ではなくともディシアにとって最愛の恋人だ、それであれば愛らしい嫁だと猫かわいがりをして、ふたりの姫君が登場する御伽噺を記憶のなかから掘り起こしたに違いない。リーシャもこれで人見知りはしないたちだから、クセラの酒くさい息だって嫌がらず古ぼけた童話に瞳を輝かせるだろう。
「……ディシア」
「ん?」
 それは、どうしたって辿り着くことのない世界だ。『アフマルの髭』を飛びだしていなければ、アアル村で彼女に出会うことはなかった。それまで持っていたものをすべて手放した自分でなければ、リーシャと惹かれあうことはなかった。
「さみしい顔をしてるわ」
 リーシャは両手に包み込んでいた仕込み杖を脇へ置くと、煤と血の匂いが移った指でディシアの頬を包み込む。だからディシアも、砂塵の染みついた両手で彼女の指を握り込んだ。
「くだらないことを考えてた。有り得ない話をな」
「夢を見たのね。どんな夢?」
「誰も死なない、全員が同じ火を囲って笑ってる、子どもが思い描くみたいなハッピーエンドだよ」
 そんな妄想、なんの役にも立たないのにな。詮無い夢想をなぞらずにはいられない自らへ嫌気が差して、溜息を吐きながら首を振る。
 失ったものへの後悔よりも手に残ったものへの喜びを握り締め、叶わない空想ではなく叶えられる現実を捉えて日々を生きるのが、砂漠の民の在り方だ。ディシアもいままでそう生きてきたし、これからもそう生きていく。
 けれど今宵ばかりは、まだ不毛な大地を踏み締められない。自身の青くささを噛み潰し、酸っぱ苦い感情に眉を顰める。するとリーシャの指がすかさず眉間を撫でるから、彼女への愛おしさに皺が緩んだ。
「明日の仕事に役立たないものは、それでもきっと、いらないものでもない。感傷は感情よ。夢見るのって、愛することよ」
 そして彼女はディシアにそっと顔を寄せ、額同士を触れあわせる。鼻先が擦れ、吐息がかかる。動物的な原初の触れあいを理性的に採択し、リーシャは柔らかな瞳でディシアを見あげる。
「さみしがるから、結びあえるの。だからそれは、少なくともわたしにとっては、大事なもの」
 獣のスキンシップのように原初的な感情で身を寄せながらも、紡がれる言葉は詩人のそれより情緒的。冷たく乾いた夜の砂、その中心で彼女は果てなく虚しい砂漠を構成する砂の一粒を慈しんでいる。リーシャの愛は、そういった類のものだった。
「…………ああ」
 益体のない感傷を愛する姿にこそ惹かれたのだ、彼女がディシアの感傷を愛したのと同じように。魂が夜の砂漠へ行き着き、夜明けをまだ知らぬ身を抱き締める。それは奇妙に懐かしく、けれどどこまでも馴染んだ感触だった。
「ディシア。眠りましょう、一緒に」
「……うん。眠ろう、ふたりで」
 きっといまの自分の指は、さぞ凍てついているのだろう。明日の朝には、熱を取り戻すのだとしても。

( 夜の砂間 )