プリズム・デザート - 6/8

 防砂壁の内と外、草神の加護が減りゆく荒野を踏み均すようにキャラバンが進む。草地は荒野に、荒野は砂に。風化の進む大地も、やがては舗装されてゆくのだろう。少なくともキャラバン宿駅とアアル村を結ぶ道に対しては、その計画が始まっているのだと聞いた。そのための下準備をしているのが、いま旅人が護衛を務めているキャラバンたちであるのだとも。
 教令院から派遣された大規模なキャラバンはアアル村からそう離れていない荒野を拠点とし、魔獣や野盗の排除と交易路の整備を進めんとしている。しかしながら拠点を設けるための物資を輸送するキャラバンの耳に襲撃事件の報せが届いていなかったようで、彼らは現状に対してやや不十分な備えで砂漠へ赴かんとしていたのだ。
 遺跡の調査を終えてスメールシティへ戻らんとしていた空はキャラバン宿駅で偶然そこに居合わせ、ディシアとともに彼らの護衛を買って出た。彼女は相変わらずアアル村を中心として傭兵稼業に勤めているようで、再会した旅人へ僅かな安堵を浮かべてみせる。最近の彼女は行商人たちへ警鐘を鳴らすのが務めと化しているようだったから、その音を聞き飽きていたとしても無理はない。
「教令院のプロジェクトが絡むなら、マハマトラに相談したほうがいいかもな」
 しんがりを務めるディシアの言葉に、旅人も頷く。アーカーシャがそれまでの運用を停止したことでスメールの民にはやがて意志の萌芽が生まれるだろう、けれどそのために利便性を失ったこともまた事実。情報伝達の遅延と称するのは、些か大仰か。スメール以外の国では、ごく自然な速度なのだから。
 なんにせよ教令院では、砂漠の入口で摘み取られている平穏の実態が把握されていない。幸い旅人とディシアにはスメールの重鎮たる朋友がいる、事件性が一層の深刻さを帯びるようであれば彼らへ直接話を持っていくことも吝かではなかった。
 未来の懸念をいかに摘むかを検討しながら、現在へ襲い掛かる害を排斥する。肥大化した蠍とキャラバンの荷物へ火をつけんとするキノコンを打ち払ってしばらく、規模の大きさゆえ遅々とした足取りの商隊をその場に留まらせてキャンプの準備を始める。太陽が、砂床へ就こうとしていた。

 大きな火を焚き、獣除けを囲うようにして一時の休息。商隊の指揮を担う人物は砂漠にも慣れているようだったが、なかには今回はじめて砂漠へ足を踏み入れるという若者も。「最初の護衛が『熾鬣の獅子』なんて羨ましい限りだ」そんな声とともに広がる談笑の輪の中心には若い商人やディシアがいて、旅人もその端で眦を緩ませる。冷たい砂漠の夜、篝火の傍で身を寄せあうことはひとつ生存戦略でもあり、ささやかな幸福でもあった。
「あっ、こら!」
 だが不意に輪の外側で小さな声が漏れ、空はそっと立ちあがる。「どうしたの」と尋ねれば、商隊の青年が困り果てたように眉を下げた。
「駄獣が一頭、あっちに行っちまったんだ。あいつも砂漠ははじめてで、虫に驚いたみたいでな」
「なら、俺が連れ戻してくる。ディシアに伝えといて」
「ああ、わかった。すまんが頼む」
 火の届かない砂漠の夜には、冷たい刃が潜んでいる。旅人は余分な混乱を手招かないようごく穏やかに青年へ伝言を託し、砂土のうえに残る駄獣の足跡を追いかける。隣にはもちろん、小さな相棒。砂漠の夜は最低でもツーマンセル、そう徹底するよう伝えた身が単独で動くわけにはいかなかった。
「この間のやつ、出てこなきゃいいけどな……」
「……うん」
 砂嵐とともに襲い掛かってきた凶刃を思い起こしたのだろうパイモンはその身を微かに震わせており、旅人は曖昧に頷きながら砂を踏む。確かに、砂漠で遭遇する危険なんてないに越したことはない。けれど、思うのだ。大事に発展させる前の収束を望むのであれば、おそらく今日が最後のチャンスになるだろうと。
「パイモン」
「ん? どうしたんだよ」
 ――斯くして、予想とは奇妙にも遭遇するもの。浮かばなければ無に帰すものは、すなわち思考の海へ打ちあげられた時点で存在が確定する。
 空は虚空から描きだした剣を握ると、荒野の岩陰でふすふすと鼻を鳴らしている駄獣を一瞥した。一旦はそこで落ち着いていることを確認し、細く息を吐く。首の後ろへ、鋭さが的確に向けられているのがわかる。
「っ!」
 隆起した岩陰から伸びる刃を叩き落とし、態勢を整えながら暗闇を睨みつける。「旅人っ!!」駆け寄らんとするパイモンへ、空は瞳を向けることなく声で制した。
「俺なら大丈夫。応援を呼んできて」
「わ、わかった!」
 相手の実力は先の邂逅でおおよそ理解した。『神の目』を得て間もないのか元素力の扱いも覚束ない様子であったから、よほどのことがない限りは時間稼ぎが叶うはず。空はパイモンを篝火の下へ向かわせると、心臓を狙う剣の愚直な軌道を躱して得物を横薙ぎにする。その一閃は夜を裂いただけであったから、その人物はやはり、砂上での身体の使い方をよくよく理解しているようだった。
 反撃を避ける身のこなしがあるのなら、深追いをして捕縛を試みるよりも応援を待ったほうが確実だ。空は単調な打ち込みをいなすように防戦に努め、駄獣の癇癪を誘わないよう四つ足の獣との距離を測りながら刀身で急所を守る。
土を蹴る足音が耳に届いたのは、振り下ろされた刃を自らの剣で受け止めちからを拮抗させているときだった。
「そこまでだ!」
 凛とした獅子の咆哮に、夜の空気が微かな嘶き。援軍の登場にか敵の武器が震えたから、その瞬間に相手の刃を振り払った。
「いままで随分と暴れまわってくれたじゃねぇか。だが、それもここまでだ」
 大剣を握るディシアの声。空が僅かに後退し、その人物もまた自分たちと多少の距離を取る。外套から覗くくちびるが、僅かに震えたようだった。
「無駄な抵抗はするんじゃねぇ。武器を下ろして両手をあげろ」
 だが。その人物はディシアの警告に、瞠目するほど従順だった。
それまで固く握り締めていた細身の剣を容易く手放し、するりと両手を肩まであげる。背後へ跳び退ることさえしなかったから、その呆気なさにはディシアでさえ眉をひそめていた。どういうことだ、と小さく漏れた呟きに、空も小さく首を振る。唐突な降伏の理由は、彼にもわからなかった。
「『神の目』も使うんじゃねぇぞ。フードを下ろせ。そのあとは両手をあげたまま、こっちへこい」
 すべては捕縛のあとに明らかになるのだろうか、と。旅人が剣を握り直す、その人物が輪郭を隠していた外套を脱ぐ。空気の擦れる音とともに、凶刃が露わになる。
「な、っ」
「あれは……」
 ようやく明らかになった姿へディシアが息を飲み、旅人とパイモンも目を丸くさせる。ディシアの警告に従い両手をあげたまま三人の前まで足を進めたのは、やたらにたおやかな印象の女性であった。
 砂漠の民らしい琥珀色の滑らかな肌、けれどその髪はディシアやキャンディスのような色をしていない。外套から覗くほっそりとした手首や顔立ちは美しい女性のものでありながら、浮かんでいる表情は不思議と無垢で稚い。奇妙に人目を惹くアンバランスへ意識を奪われていた空は、引き攣る空気の冷たさに気付かなかった。
「……ディシア?」
 言葉を発しない、襲撃事件の犯人であろう人物を捕らえようともしないディシアを不思議に思って首をひねった空が言葉を失う。開きかけたくちびるを引き結ぶほど、ディシアは愕然と青褪め震えていた。
「なん、で」
 不意を打たれ喉笛を掻ききられる瞬間でさえ浮かべないだろう表情に、空がぎゅっと眉をひそめる。それとは真逆、彼女と相対する女性は少しも震えていなかった。その対照が、空間にいびつな輪郭を浮かびあがらせている。
「なに、してんだ」
 ディシアが絶句するほどだ、凶刃は彼女の知らぬ相手ではないのだろう。それどころかよほどに縁は深い、そうでなければ彼女の魂は震わされない。
「なんで、あんたが『神の目』を持ってるんだ。どうしてあんたがこんなことやってんだ、リーシャ!!」
 悲痛な咆哮、一番柔らかな箇所を蹂躙されたかのような。そこではじめて思考が走り、空は僅かに息を飲む。「ディシア、まさか」彼女にとって、一番柔らかいもの。名前の知らない存在を、けれど自分は知っていた。
「…………ああ、そうだよ。こいつは、あたしの恋人だ」
 自由を愛するディシアが縛られることを選ぶ理由、深く打ち込まれた杭。吐き捨てるような言葉に、パイモンが息を飲んだ。なんで、と弱い声が砂粒となって地に落ちる。リーシャ、と名を呼ばれた人物は、ゆっくりと瞬きを繰り返した。それはまるで、おとなの混乱を少しも理解出来ていない幼児の身体反応のようだった。
 やがて彼女は両手を落とし、細い指で宙を泳ぐ。武器など数えるほどしか握ったことがないのだろう、真新しい剣だこの目立つ手がディシアの右手を掬いあげた。
 彼女はそれを己の頬に当て、十の指で丁寧に包み込む。それは呆れるほど幼かったのに、すべての言葉を失うほど恭しかった。
「だって。あなたの指が、熱いから」
 囁かれた声は、神へ捧げる祈りのよう。それは、見つめて胸が痛むほど純粋な信仰さえ孕んでいた。
「……どういうことだ」
「だって。わたしのなかには、冷たい砂漠があるの。そこにあなたの夜が訪れるから、わたしとあなたは、冷たさを結んで愛しあえた。……でも、でもね。あなたの指が、ずっと熱いの。夜が明けるまで繋いでいても、あなたの熱が溶けないくらいに」
 こぼれる言葉はつたなくて、頭の裏側をぐるりと掻き混ぜるような抽象画めいている。けれど彼女の声を額面通りに受け取るのであれば、いまもそこには温度差があるのだろうか。掬いあげられた指と、寄せられた頬の隙間には。
「怖いものと戦ってから、あなたはどんどん熱くなる。そうして、そのうち、炎のなかにしかいなくなるの」
 でもここは、乾いていて、とても冷たいでしょう? 肌を粟立たせる夜の砂漠を背負って、彼女は微笑む。「それなら、炎を消したら冷たくなるでしょう?」背筋が凍りついたのは、果たして夜の砂漠が寒いからなのだろうか。
 炎と称した空を一瞥した瞳には一かけらの悪意もない、その事実が恐ろしい。それは嫉妬による凶行にも至らないほど稚拙な、もしくはその醜さを凌駕して有り余るほど崇高な願いだった。
「……そんな、ことのために?」
「わたしにあなた以上のものはないわ、ディシア」
 惨たらしく打ち崩されてしまうのではないか、と。不安が過ぎるほど弱々しく唖然としたディシアの言葉に、リーシャの声はどこまでも穏やかなもので、だからこそ赤の他人が聞いていても理解が及ぶ。彼女のつたない言葉に、虚言は一切も含まれていないのだと。
「あたしが、不安にさせたから。あんたはこんなことをしたのか」
「ううん。だって不安は、わからないから怖いものでしょう?」
 愛のためでも凶行が許されることはない、誰もが当たり前に知ることを彼女は認識していない。いったい何故と、浮かんだ疑問の答えを得るのは容易だった。
「わかってたもの、あなたの熱が消えないこと。だから不安になんてならないわ」
 ディシアが向かったアアル村のはずれ、グラマパラの追放先よりも一層遠くに位置する洞穴のような住居。彼女の異変に気付く村人は存在しないのだと、ディシアは当然のように告げていた。――もしも彼女が、ずっとそのような生活をしていたのであれば。いったい誰が、世の善悪を彼女に説くだろう。
「……ディシア? わたし、なにかおかしなことを言ったかしら」
 こてん、と首をかしげる少女めいた姿に、拳を握り締めながら奥歯を強く噛む。
「……ああ。おかしなことだらけだよ、この馬鹿」
 罪は、雨林と砂漠のどこにあるのだろう。

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 僅かながら冷静さを取り戻したのち、ディシアと旅人はキャラバンから離れてアアル村へ先行する。もちろん、はぐれた駄獣を彼らの下へ連れ帰ることも忘れずに。「最近ここらで悪いことしてたやつを捕まえたから」事態を簡潔に告げれば、引き留められることもなかった。当然だろう、護衛を厳重にする理由はもう夜の砂にないのだから。
 そうしてアアル村へ向かい、キャンディスを訪ねる。彼女の狼狽は、ともすればディシアよりも激しかった。キャンディスにとっては守るべきものがそれらへ向かって刃を突き立てていたのだから、痛みなく現実を受け入れることなど出来はしまい。
「……悪いけど、ふたりにしてくれないか。朝には必ず戻ってくる」
 ディシアは恋人の肩を抱き寄せながら言い、それに空が迷わず頷く。「わかってる、大丈夫」たとえ相手が恋人であろうとも、彼女が罪人を隠し逃がすことはないだろう。ディシアへの信頼に彼女は張り詰めていた空気を僅かに和らげると、リーシャの額に頬を寄せる。「帰るぞ、大馬鹿」消えることのない熱がそこにあるとわかるから、空の魂もが微かに震えた。
 ふたりを見送った旅人とパイモンは、改めてキャンディスへ経緯を説明する。彼女に語り聞かせるのは酷なことだろう、けれどキャンディスがアアル村のガーディアンである限り、これは彼女が受け止めなければいけないことだ。キャンディス自身がそう自らを律したから、空は先の出来事を出来る限り詳細に語った。
「……そう。そう、ですか」
 やがてキャンディスは、首を垂れるようにして現実を呑みこむ。それでも彼女の姿がひどく苦しげに見えたから、空とパイモンは無言で顔を見あわせた。
「言いにくいことならごめん。……彼女、リーシャは、どんなひとなの?」
「……ええ、そうですね。貴方には、それを知る権利がある」
 キャンディスはやがて顔をあげ、煉瓦の壁をぼんやりと見つめる。その向こうに果てなく広がる砂漠を見据えるような、途方のなさへ途方に暮れる、まるでそんな瞳だった。
「彼女は、教令院から追放されたグラマパラの子です。けれど、その父親が誰かはわかりません。故郷に愛するひとがいたのか、追放された道中でなにかがあったのか、……この村にきてからか。事実は判然とせず、ただ村の者が気付いたときには既にそのグラマパラは亡くなっており、彼女は遺体から辛うじて取りあげられました」
「そんな……」
「両親のいなかった彼女は村のおとなたちによって育てられましたが、その生い立ちから、彼女は誰からも腫れもののように扱われていました。だから身の回りのことが自分で出来るようになると、彼女は早々にひとりで暮らすようになったんです」
 とつとつと語られる言葉にパイモンが言葉を失い、空でさえ顔を歪める。土くれの罅、新芽を穢す業の果て。果てない砂漠を構成する、無辜の命。やはり彼女もまた、そういった存在であったのだ。
「あの子をはじめて受け入れたのは、ディシアでした。本当に情けない話です。村の者は誰も、彼女の孤独を掬ってあげられなかった。それどころか、彼女をそこに追いやっていた」
 キャンディスの声に、知らず詰まっていた息を吐く。一見すると無垢なる狂気であった人物の業の在処を知ってしまえば、罪人として糾弾しようとも思い難い。そう感じていたのは旅人だけでなかったのだろう、胸の前で両手を強く握り締めていたパイモンも、小さく、小さく呟いた。
「あいつが旅人や、ほかのやつを襲ったのは、絶対にいけないことだけど。……でも、なぁ、旅人。オイラ、あいつを怒っていいのかわかんないぞ」
 だって、そんなことしちゃいけないんだって、あいつは誰にも教えてもらえなかったんだろ。
 悔しさすら滲ませるパイモンの声に、キャンディスが目を伏せた。
「……ええ。ですからこれは、砂漠の罪です。彼女の存在ごと、すべて」
 触れてなお散る蜃気楼は、砂漠を往く命を惑わせるばかり。