スメールシティを抜けてしばらく進み、砂漠へ向かう道すがらでキャラバン宿駅に寄る。水と食料品を補充した旅人が宿場の脇を通り抜けようとしたところで、ふと彼はその歩みを止めた。そこで見慣れた人物を見かけたからだ。
「あれ? あそこにいるのって、ディシアじゃないか?」
空の隣を飛んでいたパイモンもその姿に気付いたようで、宙を蹴って身を伸ばす。ひかりを散らす小さな姿は人目を引くもので、旅人が呼びかけようとするよりも先にディシアもふたりに対して瞳を向けた。
「おや、あんたたち。久しぶり、いいところにきたじゃないか」
「久しぶり、ディシア。いいところって、どういうこと?」
鋭い瞳が柔和に眇められ、打算を滲ませながらも人好きのする声へ首を捻る。一流の傭兵であるディシアが旅人を目にしてそのような言葉を生むということは、なにかしらの依頼があるということなのだろうが。ディシアと相対していたキャラバンの一団は、彼女と旅人の顔を交互に見据えた。
「ディシア、彼はいったい……?」
「こいつは空、旅人さ。そこらの傭兵よりよっぽど腕が立つのは、あたしが保証する」
ディシアの言葉にキャラバンの男はその表情へ目に見えて安堵を滲ませたから、詳細まではわからずとも事情の輪郭は成る程理解する。砂漠へ赴くキャラバンや学者の護衛依頼は、空も何度となくこなしてきた。
「護衛が必要なの? ディシアがいるのに」
「ははっ、ずいぶん買ってくれるね。つまり、ただの護衛じゃないってことだ」
そしてその手の依頼であれば、空以上の適任が目の前にいる。そのうえで空にまで話を持ち掛けようとしている真意を瞳で問えば、ディシアは眇めた瞳にひと匙の鋭さを溶け込ませた。
「教令院が砂漠の民へ援助を始めたことは知ってるだろ。それでスメールシティと砂漠を行き来するやつも随分増えたんだが……最近そこで、妙な事件が発生しているらしい」
「妙な事件? まさか、またひとが攫われたりしてるのか?」
パイモンが不安そうに声をあげたのも無理はない、つい先日まではスメールの中枢が本来平等であるべき人間の価値を軽視したが故の非人道的実験が横行していたのだから。草神があるべき場に坐したことで国はようやく汚泥を濯がんと動き始めたが、よもや森を燃やす火種のようなきな臭さが見つかりでもしたというのだろうか。手指をぎゅっと握り締めたパイモンの隣で空も眉をひそめていると、ディシアはからりと笑って「あれほど大仰なこと、そうそう起きないよ」ふたりの杞憂を拭い取った。
「最近、砂漠と雨林を行き来するひとたちが何者かに襲われてるんだ。ただ、キャラバンや行商人だけが狙われてるわけじゃなくて、エルマイト旅団や宝盗団のやつらも同じような襲撃に遭ってるらしくてな」
「無差別、ってこと?」
「ああ、たぶんな。だがその襲撃犯がどういうやつなのか、手がかりがひとつもないらしい。単独犯なのか複数犯なのか、襲撃者の見た目や特徴なんかも、まるでわかっていないそうだ」
ディシアの語った言葉は確かに草神奪還計画ほど大仰なものでこそないようだが、決して軽視出来る内容でもなさそうであった。砂漠の民へようやっと人道支援が始まろうとしているところでそのような襲撃事件が多発していては援助が遅れるだけでなく、砂漠の民と雨林の民の間に再度の亀裂が生じてしまいかねない。そうでなくとも、塞いだばかりの罅はまだくっついてもいないのに。
「だから、あんたたちさえよかったら、少しばかり付き合ってくれないか? もちろん報酬は山分けだ」
あんたがいてくれるなら、あたしも安心出来る。そう告げるディシアの言葉を断る道理のほうが、旅人のなかには存在していない。彼はパイモンと顔を見あわせると、「おう、もちろんだぜ!」「俺でいいなら」ふたり揃って頷いた。
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キャラバン宿駅からアアル村までの道行きは、その奥へ広がる砂漠に比べれば悪路と呼ぶにも生易しい。出くわす危険も毒蠍やキノコンといった程度で、露払いは容易いもの。ディシアへ護衛を依頼したキャラバンも元よりアアル村との交易を行っていたようでその足取りや駄獣の騎手にも無駄はなく、一行は大きな問題へ遭遇することもなくアアル村へと到着した。
「皆さん、ようこそおいでくださいました。ご無事の到着、こころより歓迎致します」
アアル村のガーディアンから歓迎と労いの言葉を向けられ、キャラバンの者は安堵の息を深く吐く。たとえディシアや旅人がいるとはいえ正体不明の脅威に身を竦ませ気を張り詰めるのは生物として当然の防衛本能、けれどようやくその緊張から解放されたのだ、一行の空気は途端に緩み華やいだ。
「空さんにパイモンさん、皆さんの護衛をしてくださったのですね。本当にありがとうございます、村を代表してお礼申しあげます」
「そんな、キャンディスが頭を下げなくていいんだぞ! オイラたちは依頼を受けただけだからな」
親交を深めてなお丁寧なキャンディスにパイモンが両手と首をぱたぱた振り、低空まで滑ってキャンディスの顔を下から見あげる。その無邪気な心遣いにキャンディスは表情を和らげると、頭をあげて「ありがとうございます」と囁いた。
「けれど貴方がたのしてくださったことは、それほど意義深いことなのだと思ってください。過分な怪我なくアアル村へ辿り着くことの出来た方は、いまやそれほどまでに少ないのです」
「うん、キャラバン宿駅で聞いた。行商人とかキャラバンが襲われてるんだよね」
「ええ。……そのせいで行商人の足も遠退いており、この状況が続けば村はますます貧しくなるでしょう」
砂漠のオアシスを彷彿とさせる豊かさと寛容さを含んだキャンディスのこころも、いまは砂嵐を浴びたかのように煙っている様子。苦々しい声を痛ましく感じるのは、彼女の胸のうちにある葛藤を察することが出来るからか。村を守るためには件の襲撃者を排する必要がある、けれど彼女がアアル村のガーディアンである限り村から離れることは許されない。その矛盾が、異なる色彩の双眸で瞬いていた。
「よう、ディシア。お前がキャラバンの護衛をしてたのか」
「ラフマン。聞いたぜ、襲撃事件の話」
「ま、そうだろうな。でなきゃキャラバンの護衛なんて一見単純な仕事、お前に持ち掛けられはしなかったろうよ」
アアル村を拠点としているラフマンはディシアと言葉を交わしては肩を竦め、「あんたのところは無事だったのか」という確認にも苦い表情で返答。それに目を見開いたのはディシアだけではない、空もパイモンと揃って僅かに息を飲んだ。ラフマンの率いていた面々は『エルマイト旅団』のなかでも粒ぞろいの実力者たちであることを、彼らはその身で以て知っている。
「幸い、命を落としたやつはいねぇ。だが、それもいつまで保つか」
「厄介な話だな……。あんたの部下たちのなかに、その襲撃者を見たやつはいないのか?」
「残念ながらな。やつめ、夜の砂嵐でも平然と襲ってくるらしい。そのせいで誰も姿がわからんのだそうだ」
テイワットで風砂を友とする民ですら件の人物に翻弄される一方だというのなら、よほどの手を打たなければ勝機を見出すのも難しい。その輪郭すら不明瞭な襲撃者は、不穏さばかりを生々しい質感でもたらしている。「一度、どこかでゆっくり考えないとな」ディシアの提案を断る者は、誰もいなかった。
「それでしたら、村長の家をお使いください。旅人さんも、今日はそちらでおやすみくださいね」
「うん。ありがとう、キャンディス」
草神奪還計画の立案時にも世話になった住居へ足を向けようとすると、あー、と小さな唸り声。ディシアはどこかバツの悪そうな表情を浮かべていたが、やがて眉尻を下げて小さく笑った。
「悪い、先に行っててくれ。あたしはちょっと、用事を済ませてくる」
「用事? ほかにも依頼があるなら、オイラたちも手伝うぞ!」
パイモンの申し出に旅人も頷くのだが、ディシアは目を泳がせるばかり。竹を割ったような気質でいる彼女らしからぬ様子に相棒と顔を見あわせて首をひねっていると、やがてディシアは観念したかのように息を吐いた。
「いや、それには及ばないさ。ちょっと恋人に会いにいくだけだからな」
そうして告げられた言葉に、ぴぁ、パイモンの喉から高い声。空もこれには目を見開いて、思わずキャンディスを振り返った。柔和で誰に対しても親切な女性の、明るくも悪戯っ子のような笑み。ディシアが濁そうとしていた言葉は真実であると、驚愕の次の瞬間には証明された。
「こ、恋人ぉ!? そんなのオイラ、ぜんっぜん、いっちども、まったく、聞いてないぞ!!」
「そりゃあ言ってなかったからな。あんな計画を立ててたんだ、不安要素は出来るだけ排除しておくべきだろ」
あんぐりとくちを開けて唖然としている旅人の隣では、パイモンがディシアの眼前にまで詰め寄って混乱を露わにしている。ディシアは激しくひかっているかのようなパイモンに対して駄獣を扱うときのように「どうどう」と宥め、尤もらしい言葉で高い声をぴたりと塞いだ。
確かにその恋人がどのような人物であるかはわからないが、ディシアと同等かそれ以上の実力者であるとは思い難い。そして身近な弱者は、強者にとって最大の弱点とも成り得るのだ。失敗の許されない作戦であればこそ、それを秘するのは正しい、もしくは、間違いのない判断でもあった。
「だがお前の言う通り、そいつはでけぇウィークポイントだ。話しちまってよかったのか」
「そこは素直に、あたしがあんたたちを信頼してる証拠として受け取ってくれよ」
ラフマンへ軽く笑ったディシアの言葉は面映ゆく、空は軌跡とともに隣へ舞い戻ったパイモンと顔を見あわせると照れくささをごまかすように笑いあう。空気の和らぎにディシアもその表情を緩ませていたが、やがて長く豊かな髪を揺らしてその身を翻した。
「そんなわけだから、ちょいと外すぜ。すぐ戻る」
「ああ、うん。ごゆっくり」
「そうだぞ、恋人さんによろしくな!」
実際のところ彼女がどれほどの頻度で恋人の下へ通っているのかは知らないが、ディシアは自由を謳歌しているがゆえにスメールでその名を馳せるほどの実力を持った傭兵となった身だ。たとえば毎週のようにアアル村へ戻って恋人と愛を育んでいる、なんて予想は少しばかり非現実的。それならばたまの逢引くらいは優先してほしくて手を振れば、ディシアは首筋をくすぐられでもしたかのように肩を竦めてしまった。
そうしてアアル村の崖向こうへ消えていったディシアの後姿を見送ったのち、空はラフマンを仰ぎ見て頷きあう。彼女がいない間にも、襲撃事件の情報はまとめておかなければいけない。
厄介になった夜の数が両手の指を越えたせいだろう、アンプ邸からは塵歌壺にほど近い肌馴染みのよさを感じられる。村長へ手土産をわたしては「気にせんでいいのになぁ」と笑われながらも厚意を受け取められるあたたかさにひと息つき、キャンディスの入れてくれた果実水で喉を潤しながらアアル村を悩ませている襲撃事件の概要を改めて確認した。
旅人がキャラバン宿駅で耳にしたものとアアル村で起きている現状の間には、そう大きな乖離も存在していない。アアル村を中心とした砂漠の広域で人間に対する傷害事件が多発している、という事実がすべてであった。
「……でも、やっぱり変だよな。行商人だけじゃなくて宝盗団まで襲うなんて」
「ああ。それに、やつめの凶行の理由もわからねぇ。物資が目当てというわけでもないようだし、私怨にしちゃあ襲う相手が多すぎる」
ラフマンの言葉に、空が目を丸くさせる。「物資が目当てじゃない?」拾った言葉を繰り返すと、ラフマンも少し驚いたような顔で「ああ」と頷いた。どうやら、旅人がその事実を知らずにいたとは思っていなかったらしい。
「襲撃犯のやってることといえば、ただただひとを襲うだけだ。キャラバンの駄獣を奪うことも、行商人の積荷を狙うこともない。だから余計に気味が悪ぃ」
「そう……俺はてっきり、強盗目的だと思ってた」
行商人であれば高価な交易品を積荷としていることも多く、また宝盗団ならば所持品の多くが盗品であるため第三者が襲撃犯を辿る際にも痕跡が残りにくい。けれどそういった営利目的の行為でもないのなら、ほかに思いつくのは愉快犯というくらい。だがそれも可能性は薄いだろうから、ううん、と首をひねることしか出来なかった。
「せめてもう少し犯人の情報があればなぁ……」
早々に匙を投げたパイモンの声に、まったくだ、とふたりも頷く。砂嵐が吹き荒れる日もあるとはいえ雨林のように視界が鬱蒼と塞がれることもない砂漠で、どうしてその姿を隠すことが出来ているのか。その術も、旅人には思い当たらなかった。
「よう、遅くなったな」
「ディシア! いいのか、こっちにきて」
疑問ばかりが浮かび、そびえ立つ壁のようなそれらを打ち崩す手段もわからずに唸っていれば、ふと玄関扉の開く音。冷たく乾いた風を伴ってアンプ邸へ顔を見せたディシアは、わかりやすく気遣うパイモンの言葉に「すぐ戻るって言ったろ」と苦笑した。
「いいんだよ、話がまとまればまた戻る。それに今回は、あいつが事件に巻き込まれてないか確認したかっただけだしな」
「……そっか。恋人の家、ちょっと離れてたみたいだったから」
「ああ。内気なやつで、村で親しい相手も多くないんだ」
それこそ、万一なにかあったとしても誰も気付かれないくらいにはな。ごく自然に落ちた言葉には苦みすら溶けていない、その感触にこそ内心で僅かに目を見張る。けれど一拍ののちに頷いてしまえたのは、アアル村の持つ罅割れを知っているからだ。グラマパラへの不満、過激なキングデシェレト信仰者、余所者を受け入れることを得意としない保守的なたちの根深さ。その罅にようやく軟膏が塗られ始めた、けれどそれはすなわち、軟膏を塗る必要のある深い罅がここにあることを示している。
シャニのように一見アアル村へ馴染んでいるように見える人物ですら、その内側では迫害への恐怖が息衝いていた。ならばそもそも村に溶け込めない人間がいたところで、その事実は違和や傷として浮かびあがらない。
「そいつはノーグッドだ、オレらのほうでも気にしておこう」
「そうしてくれると助かる。本当はあんたらに紹介したかったんだけどな、ぐずって嫌がられちまった」
取りこぼされる同胞を労わるラフマンへ、ディシアは僅かな安堵とともに頷く。恋人へ手を焼くディシアの姿は新鮮だったから、その姿にくちもとを少しだけほころばせた。ぐずって嫌がるだなんて、それはきっと件の恋人の内気な気質に因っているのではなく、ディシアへ甘えているのだろう。
「それで、事件のことはどうだ? なにか思いつくことはあったか」
「うっ、それが全然……というか、相手の目的も姿もわからないんじゃどうしようもないぞ!」
逸れた話の舵を取り直したディシアには申し訳ないが、パイモンの言葉が話しあいのすべてである。襲撃犯を確保に向けて動くには、あまりにも情報が少なかった。
「ディシア。砂漠の民って、砂嵐のなかでも平気で動けたりするものなの?」
「いいや。その恐ろしさを知っているから、むしろ一番避けていると言ってもいい。砂嵐のなかでも戦えるやつなんて、それこそあたしやキャンディスくらいだ」
唯一の手掛かりといえば、その凶刃が砂嵐にも動じないということくらい。ディシアの言葉を仮定に据えるのであれば、件の襲撃者は一角の武人ですらあるだろう。だがそれほどの実力者であれば、砂の海をわたる才能は名前とともに知れわたっていると考えたほうがごく自然。それほど名の知れた存在が犯人ならば、何故その正体を隠して凶行に及んでいるのか。名が知れているからこそ、身を眩ませて名もなき襲撃者に扮しているのか。
「うーん、ぜんっぜんわからないぜ……」
「とりあえずは警戒を続けるしかなさそうだな。あたしもしばらくは、ここらを拠点に仕事を探そう」
いまはただ、蜃気楼を掴もうとしているに過ぎなかったから。まぼろしのなかに潜む実体を見つけるまでは、揺らめく陽炎をじっと睨むことしか出来なかった。