子供の情景 - 5/5

 練習の合間で、ときどきピアノの音がする。常にグラウンドまで響いているわけじゃないし、練習に集中していれば不必要な情報は自然と意識の外へ弾きだされる。だからその音を意識する瞬間は、一日の間でもごく僅かなものだった。
「…………」
 だけど今日は休憩中に聞こえたから、汗と砂埃を拭うタオルのふちで校舎に目を向ける。そうしたところで、演奏者の顔が見えるわけじゃない。わかっていても視線を動かしたのは反射のようなもので、見えなくともピアノを弾いている人物には心当たりがあった。
 茅ヶ崎志鶴。クラスメイトで、更に言うのなら、俺の前の席に座っている人物だった。席が前後だった関係で、入学当初から喋る機会は少なくない。彼女はあまり他者へ深入りすることがなかったから、世間話をするにはちょうどよかった、というのもある。
 その彼女と交わす世間話の頻度が増えたのは、俺と藤堂くんが野球部だと認識されてからだろう。茅ヶ崎さんは野球ではなく、俺たちが野球を一度辞めていることに食い付いた。馬鹿正直な藤堂くんの言葉を聞き流さなかったから、面倒だと思ったのは事実。だからそれ以来、茅ヶ崎さんの前でその話をすることは避けていた。
 だが彼女が俺たちの触れられたくない箇所へ触れたように、俺たちも彼女の触れられたくなかった場所に触れてしまった。
 授業中も板書や問題を解くとき以外は必ずシャーペンを手放していたし、指の付け根をほぐす動作も何度か目にしていた。スマホは絶対に片手で持たなかったから、腱鞘炎かなにかなのだろうとは簡単に察しが付いた。そう容易く触れていい話題ではなかった、そのことだけを見落とした。
 茅ヶ崎さんの指を指摘したときの表情を見て、まずった、と思った。俺は他人の生傷に土足で踏み入った。そのあと藤堂くんも同じことをしたから、あのときほど肝が冷えたこともそうそうない。
 しかし茅ヶ崎さんは、それで感情的にならなかった。その代わりに打ち明けられた身の上話は、俺にとっては間違いなく他人事だ。それなのに、赤の他人の悲劇だと切り分けることが出来なかった。俺が生傷を踏んでしまった罪悪感もあったし、他人事と言い切るには、その手触りに覚えがありすぎた。
 彼女もそれを感じていたのだろう、生々しい挫折経験はそうでなくともくちにすることが難しい。俺と藤堂くんが野球を一度辞めた人間だったから、茅ヶ崎さんは自分が手放したものを語ったのだ。
 それでもあの日の放課後から、ピアノの音が聞こえるようになった。クラシックは守備範囲外だから曲名まではわからないし、彼女があの日吐き捨てたような演奏のクオリティも素人では判別することが出来ない。だから俺はそこに評価を下すこともなく、誰かがピアノを弾いているのだという事実だけを認識している。
「……ふうん」
 そして恐らく藤堂くんも、俺と同じなのだろう。給水の合間でピアノの音に気が付くと、視線をそれとなく校舎に向けている。耳馴染みの薄い音楽を雑音と判断せず耳を傾けるのは、そこにクラスメイトの影を感じ取っているからだ。
 だが、だからなんだって言うのだろう。彼女のことは練習の合間で挙げるべき話題でもなかったし、要くんたちと別れたあとの帰り道でわざわざ話すようなことでもない。だから俺と藤堂くんは彼女の指の事情と同様、お互いそれに気付きながらも話しはしない、暗黙の共通理解としてピアノの音を取り扱っていた。

 それが変わったのは、何度目かになる要くんのストライキが起きたときのことだ。少しずつ改善の兆しはあるけれど素人同然に成り果てた怠惰な要くんは野球部の練習にも積極的になれず、特に基礎練が続くと、息抜きと称してグラウンドを抜け出すのである。
 要くんはたいてい山田くんに回収されていた。面倒見がよくお人好しな彼は要くんが脱走すると「みんなは練習続けてて!」と言い残し、ひとりで要くんを探しては説得して連れ戻す。普段はそれに甘えていたし、今日もそのつもりだった。そうしなかったのは、魔が差したからだ。
「……いえ、いつも山田くんに頼んでばかりでは申し訳ないですし。今日は俺も探しに行きますよ」
「えっ、それじゃ悪いよ。こっちのことは気にしないで練習してて」
「ですが、そろそろ休憩にはいいタイミングでしょう? 気分転換ついでに拾ってきます」
 山田くんの手伝いという名目でグラウンドを離れる。もちろん、ああ言ったからには要くんを探して回収するつもりだ。幸いにして彼の逃亡先はワンパターンなので、探し出すことはそう難しくもない。
「おや、藤堂くんもですか?」
「おう。確かに、ヤマにばっか行かせんのも悪いしな」
 グラウンドのフェンスをくぐったところで、藤堂くんが自然と隣に並ぶ。俺の正論に含まれた打算を正しいものと認識する単純な人物は視線までもわかりやすく、彼は明確に校舎裏を見据えている。
「あいつ回収するついでに、音楽室覗いてみてーし」
 そして藤堂くんは俺がせっかく作りあげた名目も全部壊すように、埋めた感情をまずくちにする。つくづく発想が真逆な相手だった。
 それに頷くのも癪だったので、無言で校舎裏へ向かう。進むほどにピアノの音が近付いてくる、幸か不幸か要くんの姿はない。聞こえてくるのは、相変わらず知らない曲だ。でもこの一週間、ずっと聞こえている曲だった。
 ひとつだけ窓の開いた第二音楽室に近付いて、教室のなかを覗き込む。大柄な藤堂くんが近付けば気付きそうなものなのに、音が途切れることはなかった。それだけ集中して弾いているのだろう。
 そこにいたのは案の定、茅ヶ崎さんだった。顔を歪めて憎々しげに弾いているから、よっぽど演奏に納得がいかないのだろう。そうでなければ自分に失望して辞めるような選択など、誰がするものか。それでも彼女は指を止めない。まるで、グランドピアノにしがみ付いているようだった。
 曲のメロディがそう感じさせるのか、心底悔しそうな顔のせいか、それは物静かな茅ヶ崎さんの演奏とは思えないほど乱暴な印象を受けた。
 もしくは、これこそが、彼女がずっと吐きだせなかった感情なのかもしれなかった。
「――……うわっ!?」
 そのうち曲が終わり、茅ヶ崎さんの指がピアノから離れる。グランドピアノの端に置かれていたスマホを取ったところでようやく俺たちに気付いたらしく、わかりやすく驚いて、その勢いでスマホを床に落としていた。「おい、大丈夫かよ」窓から教室内を覗き込んだ藤堂くんが呆れ声で言うけれど、いつの間にか無言の聴衆が立っていたら驚くのも当然だろう。「すみません、驚かせてしまって」彼の分も含めて詫びれば、スマホを拾い直した茅ヶ崎さんが俺たちにまた目を向けた。
「……いまの、聞いて」
「ええ、お見事でした」
「忘れて、いますぐ忘れて、三秒後には忘れて、忘れられないなら一発殴るから忘れて」
「いやいやいやいきなりすぎんだろ、あと手ぇ上げんな危ねぇだろうが」
「じゃあ忘れて」
「わぁかった、忘れるっつの!」
 クラシックの生演奏に縁のない俺にとってはじゅうぶん見事な演奏だったのだが、茅ヶ崎さんにはからかわれているように受け取られたのかもしれない。振りあげられた茅ヶ崎さんの拳が当たらないよう俺が窓から一歩離れれば、藤堂くんは逆に前へ出て茅ヶ崎さんの手を下ろさせようとする。さすがは喧嘩慣れした元ヤンキー、リーチを測って拳を下ろさせるくらいはお手の物なのだろう。
「ってか、なにしにきたん。練習は」
 貴方がピアノを弾いているのか確認しにきたんです、とは、さすがに言えなかった。それは、俺たちがピアノを弾くようになったきっかけですか、と聞いているようなものだ。さすがにそんなことをいけしゃあしゃあと聞けるほど厚顔無恥にはなれない。
「いまは休憩中です。ちょっと人探しにね」
「なにそれ」
「たまに脱走すんだよ」
「あんたたち、軍隊にでもいるの?」
「うちは愛好会レベルの部活なんですけどねえ」
 校舎裏にきた本来の目的を言えば、茅ヶ崎さんはようやく羞恥心を引っ込ませて普段通りに喋り始める。脱走兵こと要くんのことを軽く話すと、なにそれ、とまた笑った。よかったですね要くん、女子にウケてますよ。
「……ああ、そうだ。茅ヶ崎さん、スマホ出してもらっていいですか?」
「なに?」
「連絡先、交換しておこうと思いまして」
 ついでを装ってスマホを出せば、茅ヶ崎さんより藤堂くんのほうがぎょっとして、信じられない光景を見たとでもいわんばかりの顔を俺に向けてくる。茅ヶ崎さんはあっさり頷いて定番のアプリを起動したから、藤堂くんが唖然としている間に連絡先の交換は済んでしまった。
 そこからグループトークを作成して、藤堂くんと茅ヶ崎さんをメンバーに入れる。俺のスマホに向かってノリノリでポーズを決めた要くんの写真を送ったら、ふたりのスマホが同時に通知音を立てた。
「彼がうちの脱走兵です。たまにここへ逃げ込んでくるので、見つけたときには連絡してください」
「あはは、スパイだ」
「ええ。ですから気付かれないように、気を付けてくださいね」
 藤堂くんの言わんとすることは、手に取るように理解出来る。どうせ俺が自分から他人と連絡先を交換することが信じられないのだろう。確かに、自主的にそうしたことはほとんどない。だが、彼女ならいいと思った。茅ヶ崎さんが軽薄で軽率な人間でないことは、この短い日々でも充分理解することが出来た。
 そのうち藤堂くんのスマホが鳴ったから、茅ヶ崎さんのほうから登録申請したのだろう。
「それでは、俺たちは引き続き脱走兵を探してきますので」
「ん、お疲れ様」
 目的は達成した、成果は充分だ。要くんが校舎裏にいないということは、屋上へ逃げ込んだのだろう。音楽室の前で長居する理由もなかったのでその場を離れたら、そのタイミングで茅ヶ崎さんのスマホから通知音が鳴った。
「……千早、藤堂」
 藤堂くんも音楽室の窓から離れたところで引き留められる。振り返ると、手を振られた。
「練習頑張って」
 なんてことのない一言だ。だが、それが彼女の気質を示している。茅ヶ崎さんは、挨拶を欠かさないひとだった。
「おう」
「ええ」