子供の情景 - 4/5

 放課後、日直の仕事を全部終わらせる。教室の窓を全部閉めてから、日誌を職員室に持っていく。担任に最後の仕事を渡したあとは、いつも通り。先生から鍵を借りて、一階の一番奥にある教室へ向かう。どの部活でも、誰も使うことのない、第二音楽室。古ぼけたグランドピアノがあるだけの部屋で、ピアノ椅子の前に座る。
 入学してから、ずっとそうだった。音楽室でぼうっとして時間を潰して、下校時刻まで結局なにもしない。だって、なにもやることがなかった。
 それまでは、毎日ずっとピアノを弾いていた。コンクールの課題曲、それに向けた練習曲。それだけじゃない、自分で弾いてみたかった曲も隙間で弾いた。弾きこなすには程遠かったけど、黒鍵も革命も英ポロも全部弾けた。弾きたかったから練習して弾いたのだ、いつか弾きこなせるようになるために。
 ピアノを辞めてから、その時間は全部空いた。でも、じゃあ、代わりになにをすればいいのだろう。わからなかった、ピアノしかしてこなかったから。代わりのものを探してみても、どれも面白そうに見えなかった。ピアノ以上に夢中になれるものなんて、どこにもなかった。
 他のひとの演奏は聞けない、そんなの苦しくなるだけだ。でも自分でも弾けない、自分の指からあんなに汚い音が出ているなんて耐えられない。それなのにあたしは、結局ここにいる。弾かないくせして、聞かないくせして、グランドピアノのピアノ椅子に座り続けている。あたしは、ここしか知らないから。
 ――辞めてた間もつらいなら、つらいのは結局ずっと同じだろ。
 藤堂の言葉は、息苦しくなるくらいその通りだった。結局なにをどうしたって、どこかで絶対苦しいのだ。
 ――ただ、それは俺たちの場合です。
 千早は、あたしとあいつらを比べる必要はないって言った。あいつでもそんなこと言うんだって、ちょっと驚いたくらいの気遣い。でもそれは所詮気遣いだ、千早だってたぶんわかってる。藤堂の言い分は、それくらい当たっていた。
 グランドピアノの蓋を開ける。弾かないくせに表面の埃だけは毎日ちゃんと取っていたから、ちょっと動かしただけで咳き込むようなことはない。ずいぶん久しぶりに見る鍵盤。白鍵は黄ばんでいて、試しに押してみたら酷い音。学校のピアノなんて所詮そんなものだろうけど、碌に調律もされていない。歪んでいて、音もずれていて。
「っ、はは……」
 でもそれだったら、あたしの音がどれだけ酷くても隠れられる。馬鹿みたいなズルいことを考えて、鍵盤のうえに指を乗せた。軽い指慣らし、弾く前の反復練習。一年以上弾いていないのに身体はまだ忘れていなくて、最低限指は動く。
 弾いた。一年以上ぶりに。好きだった曲。子どもの頃に憧れて、弾けるようになりたいって最初に思った曲。指がちゃんと回らなくて音は飛んでいるし、リズムだってめちゃくちゃだ。こんな遅いテンポってない、っていうかこのピアノメンテしてなさすぎ。埃がこびりついているせいで、ちからで無理やり押し込まなきゃ鍵盤が下がってくれない。その振動が骨に響く、ひっどい音で気が狂いそう。
「ははっ、は……」
 そのせいで、涙が止まらなかった。あたしは、あたしの音を覚えている。だから嫌気が差すのだ、あんなに綺麗だった音がこんなにずたずたになってしまっているから。
「っ……」
 それなのに、ひっどい音なのに、弾けてしまったから。ピアノから手を離して、自分の両手で顔を塞ぐ。誰も見ていないのに反射で顔を隠して、しばらくひとりで泣き続けた。
 あいつらの言う通りだ。辞めたって、辞めなくたって、ずっとしんどい。
 それでもあたしは、自分の好きなものを手放すことが出来なかった。どれだけしんどくても、こんなに苦しくても、忘れることさえ出来なかったから。