子供の情景 - 3/5

 チャイムと一緒に授業が終わって、お決まりの号令をかける。それに先生は頷いて、黒板を消しながら連絡事項。ノート出せよ、の一言があったのは宿題があったからで、日直頼むな、の言葉が続いたのはノートの回収と提出が基本的に日直当番の仕事だからだ。後ろから回される千早のノートに自分のノートを重ねて前の先へ送りながら、内心大きな溜息が漏れる。今日の日直は、あたしひとりだった。
 黒板を消してもらえたのは日直の仕事が減るから助かるのだが、教卓に積まれていくノートの山には嫌気が差す。なんでうちのクラスは日直が休みだったらその役目を後ろに回さないのだろう。ふたりでやれば五分で片付く当番の仕事も、ひとりだったらそうもいかない。お昼休みが必要以上に削れることも嫌だったし、なにより問題はノートの山だった。
 ただ、あたしが嫌がったってノートの山は消えないのだから仕方ない。恐らく全員分あるだろうノートを両腕で抱えようと、手を伸ばす。
「これ、もらっていきますね」
「……は? いや、別にいいし」
 でもあたしはノートの山を崩せなくて、それは代わりに他のやつが攫ってしまう。断ったのにノートはそのまま持っていかれてしまって、慌ててそいつを追いかけた。思った以上に足が速くて、追いつくために廊下を軽く走る。
「千早、いいから。あんたは明日じゃん」
「まぁまぁ、お気になさらず」
「いや無理でしょ、いいってば」
 今日の日直があたしってことは、明日の日直は千早ってことだ。席順に回ってくる当番は後ろ倒しにされていないのだから、千早がいまノートを持っていったところで明日の仕事が減るわけじゃない。ノートを奪おうとしても、無駄に器用な動きで避けられてしまった。ちょっとムカついた。
「茅ヶ崎さん、指が悪いんでしょう? さすがにこの量はね」
「は……」
 でも、そんな感情も、一瞬で飛んだ。なんで。誰にも言っていないのに。
「…………すみません、軽率でした」
「……別に、いいけど」
 吃驚していたら、足を止めた千早に謝られる。けど別に、そんな神妙な顔をされることじゃない。驚いただけだし、と言ったのに、千早はお得意のにこにこ顔を消してしまっていた。
 そう、驚いただけだ。ひけらかすようなことじゃないから、誰にも言っていないってだけ。それでも千早は、いつもみたいな卒のない振舞いをしなかった。ただ無言でノートの山を持っていく。さすがに、奪い返せる空気じゃなかった。
 結局それは千早が職員室まで運んだ。先生はあたしと千早を見てちょっと驚いていたけど、千早の自主的な手伝いが褒められるだけで終わった。当たり前だ、それ以外のことなんて起こりようもない。
 でもそのせいで、あたしと千早の間の空気はぎこちないままだった。落ち着かないまま、なんとなく千早と一緒にクラスへ戻ろうとする。でもその途中、一階の校舎裏から教室のゴミ箱片手に廊下へ戻ってくるやつが見えて。それがうちのクラスのやつだったから、なんで、とつい言ってしまった。
「藤堂、なにしてんの」
「あ? ゴミ捨て」
「助かるけどなんで」
 ゴミ捨ても日直の仕事だから、藤堂が今日やるべきことじゃない。なのにそいつは中身が空っぽのゴミ箱を持っている、ノートの山を攫っていった千早みたいに。お礼を言うのも忘れたあたしに、藤堂は嫌な顔ひとつしなかった。
「だってお前、手ぇ悪いんだろ」
 そして藤堂も、千早と同じことを言う。テーピングをしているわけじゃないのに、教室でそういう失態を犯してもいないのに。ふたりだけは、あたしの指に気付いていた。
「……それ、野球部の特技?」
 確かに、隠してはいなかった。でも大っぴらにもしたくなくて、出来るだけ普通を装っていた。それなのにふたりは当たり前に指摘してくるから、どうしようもなく恥ずかしい。平気な顔でいたあたしが馬鹿みたいで、その居た堪れなさをごまかす代わりにふたりを睨んだ。
 千早と藤堂は互いに目を向けあって、なんとも言えない顔をする。たぶんふたりは、ふたりともがそれぞれあたしの指に気付いていて、でもふたりでその話をしたことはなかった。だから意思疎通をつうかあで取るみたいな顔は向けあわないのだ。それはそれで、やっぱりあたしが居た堪れない。
「特技っつーか、まぁ、なぁ」
「練習のしすぎで指を悪くする投手も見てきましたから、気付きやすいのかもしれないですね」
 なんとなく気付いたのだろう藤堂の曖昧な言葉と、暇潰しの観察で気付いたのだろう千早の声。じゃあクラスのみんなが気付いていて、あたしひとりが気付かれていないと思っているわけじゃないのだろうか。心配になって、でもそれをふたりに聞く勇気はなかった。
 だから代わりに、そっか、って頷いて。ノートを抱えていた千早と、ゴミ箱を抱えている藤堂を見る。のろのろ教室に向かえば、千早たちはわざわざあたしにペースをあわせた。ふたりはそれ以上、なにも言わない。その理由が、わからないわけじゃなかった。
「……あたし、ピアノやってたんだ」
 藤堂は、野球を辞めてたって言った。千早は、それを否定しなかった。怪我なんて、なにかを辞める最大のきっかけだ。なにかを辞めたことがあるから、ふたりはそこに立ち入らなかったのだろう。
「自分で言うのもなんだけど、上手かったんだよ。全日本だって優勝した、海外のコンクールも入賞してた。音大付属の高校からも、いっぱい声かかってた」
 そうじゃなきゃあたしだって、こんなこと言う気はなかった。自分語りとか恥っず。そう思うのに、言い訳みたいに喋っていた。藤堂が、野球を辞めてたって言ったから。千早が、それを否定しなかったから。
「それが両手とも指壊して、全部パア。日常生活には支障なくなったけど、前みたいに弾けるようになるまで回復するには最低でも五年いるって言われた」
 傷の舐めあいをしたいわけじゃない。だって千早と藤堂は野球部に入っているのだから、あたしと舐めあう傷もない。
「無理でしょ。あたしがどれだけ弾けてたかは、あたしが一番よく知ってる。そこに戻るだけで五年もかかるんだよ、あたしは五年間ずっと自分の最高のパフォーマンスといまの自分を比較しなきゃいけない。最低でも五年は、汚い音しか出せない」
 無理でしょ、そんなん。
 考えるだけで気が狂いそうだった。だってあたしは、あたしの音が好きだったのだ。納得出来るまで突き詰めた、最高の音。それがもう出せなくなってしまっていて、あたしの指からは信じられないような音しか出ないのだ。
 リハビリの間、一度だけピアノを触った。その音に耐えられなくて、全部辞めた。
「……ふたりは、しんどくなかったの。辞めてたもの、もっぺんやるのって」
 辞めてたって聞いてから、ずっと知りたかった。だからくだらない自分語りをして、ふたりの同情まで誘って。自分のこと馬鹿みたいって思いながら、止まらなかった。こんなこと聞ける相手、他にいなかったから。
「そりゃまぁ、多少は腹括ったけどよ。辞めてた間もつらいなら、つらいのは結局ずっと同じだろ」
 藤堂はあたしの自分語りにも引かずに、ちょっと考えてから答えてくれた。その言葉は、想像していたよりずっと重い。うん、って頷いたら、千早がくちを開いた。
「ただ、それは俺たちの場合です。茅ヶ崎さんとは状況が違う」
 千早の言葉はご尤もだ、結局は完全に真似出来るわけもない。そうだね、って言った。本当に、そう思ったから。
 そのうち教室に戻ったから、そこでやっと思いだす。
「千早、藤堂。ありがと」
 あたし、手伝ってもらったお礼も言っていなかった。
 今更になってしまったのに、ふたりは全然気にしていない顔で「おう」「ええ」って笑った。