子供の情景 - 2/5

 朝起きたら学校に行く、すっかり定着した平日の当たり前。教室に入ったときに誰かと目があったら「おはよう」って言えば、定番の挨拶が輪唱された。自分の席でスクールバッグを下ろしたら、その振動で気付いた、みたいな仕草で顔をあげられる。「おはようございます」「おはよ」後ろの席の千早とは椅子を引くタイミングでほぼ目があうので、たぶん一番よく挨拶をしていた。
 鞄の中身を机に移して、少し考えてから振り返る。そのタイミングで藤堂とも目があったから「おはよ」「おう」お決まりのやり取りが自然と挟まれた。
「ちょっと気になったんだけど」
「あ?」
「あんたたち野球部って聞いたけど、そもそもうちって野球部あった?」
 千早と藤堂の声がときどき聞こえてきたから、ふたりが野球部に入っていることは知っていた。けれど、そもそも。入学したときに配られた部活案内には野球部なんてなかったことを、ふと思いだしたのだ。野球部なんてどこの高校にもありそうなのに、って思ったことも一緒に。
 だったらふたりは、どこの野球部に入ったのか。目があって挨拶したついでに藤堂へ聞いたら、千早が左耳のイヤホンを抜く。偶然聞こえた、というか、聞いていたのだろう。
「先月発足したところだったらしいですよ」
「ああ、それで」
 つまり新入生用の部活案内を刷り終わったあとで野球部が出来たから、冊子にはなにも書かれていなかったらしい。よくそんなとこ見つけたね、と素直に言う。新入生向けの案内に載っていない部活なんて、よっぽどピンポイントで勧誘されなきゃ出会えもしないだろう。ええ、偶然。千早はそう言って笑ったけど、たぶんダウト。きっと、さっきと同じことがあったのだ。
「……ふたりって、元々野球やってるんだっけ」
 あたしの言った「野球部」って言葉だけがイヤホン越しにも聞こえたみたいな、そんなことが。
 元々やってたなら聞き分けることだって出来るだろう、馴染みのあるものなのだから。でもあたしの言葉に千早と藤堂はちょっと驚いていて、その顔で逆にあたしが驚いた。なんで知ってるんだ、みたいな顔をされても困る。
「たまにこっちくる野球部に解説してんじゃん」
「あ、ああ、そうだったな……」
「確かに要くんは、いまは素人同然ですからね……」
 他のクラスにいる野球部は初心者らしく、野球の基本ルールをふたりへ聞いては藤堂が蹴ったり千早が嫌味を飛ばしたりしている。あたしは正直その初心者が質問しているレベルのことしかわからないから、それより詳しいふたりを経験者と判断するのは当たり前のことだった。
「でも、元々やってる、じゃねぇ。辞めてた」
「そうなんだ。復帰したん?」
「……まぁ、な」
 ただ、藤堂は律儀に訂正する。こいつのこういうところ、生きにくいだろうなって思う。いまだってあたしが聞いたら、ちょっと困った顔になった。それなら千早みたいにだんまり決め込んで、話題が変わるのを待てばよかったのに。
「千早も?」
「まぁ、俺もそんなところです」
 せっかくだから千早にも聞いてみれば頷くくせしてぼかすから、シンプルに距離が出来る。千早も藤堂も、それには触れられたくないらしい。自分から言ってきたのに。でもさすがに、張られたガードを無視するほど空気が読めないわけじゃない。それ以上聞く気はなかったから、ふうん、とだけ返した。
「すごいね、もっぺんやるって」
 あとは、ただの感想。素直にそう思った。でもふたりはまた驚いたから、あたしが変な気分になる。ただの個人の意見に過ぎないのだから、いちいちそういう反応しなくてもいいのに。
「だって、ずっとやってるより、初めてなんかするより、辞めてたこともっぺんやるほうがクるじゃん」
「それは……そういう面もあるかもしれません、ね?」
「ってか、すごいっつってんだから素直に喜んどきなよ」
 妙な空気になりかけたところを無理やりにでも繋げられるのは、千早のすごいところだろう。藤堂は未だにくちが半開きになっていたから、千早がいなかったら鳥肌ものの空間が出来上がっていたに違いない。その千早も「そうかもしれませんね、ありがとうございます」って声はぎこちなかった。何回仮定にするのだ、断定をしろ。
 思わず溜息が出たところでチャイムが鳴って、担任の先生が教室に入ってくる。あたしはそのまま前を向いて、日直の号令にあわせて椅子から立った。

 ただ、この日からときどき、野球部ふたりと話すようになった。部活の話をしているっぽいときは立ち入らないけど、ふたりがなにもしていないときには少しだけ。さっきの先生の文字が読みにくかったとか、シャーペンの芯が切れそうだから何本か欲しいとか、そんなレベルの世間話。
 別に、それでなにか変わるわけじゃない。それなのにふたりと話す自分が、ちょっと馬鹿みたいだった。