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微睡みのまほろば

 アジトの椅子に腰を下ろして、火種のない暖炉をぼんやり見つめる。見つめるというより、視界に映った光景のどこにも焦点を定めずただ視覚情報を緩く認識している状態。すべての輪郭が僅かにぼやけた世界に浸っていれば、おうい、声をかけられた。 がぱっと…

落翼

 深夜の要塞は、いっそ不気味なほどに静まり返っている。罪人たちは管理者の飼育計画に則り床へ就き、意識ある者はいて精々が不寝番程度。パイプの中を通り抜ける水の音だけがごうと唸って、今宵は一際にそれが耳障りだった。「管理者への面会を。許可は取っ…

たとえ真珠が白くなくても

 世界がのすべてが寝静まる夜、デスクに広がっていた書類をまとめて息を吐く。夫の淹れてくれた紅茶もすっかり冷めてしまっていて、ティーカップのふちはひんやり冷たい。それでも滲む茶葉の香りは、のこころを解きほぐす。二度目の吐息は心地好く。ふ、と肩…

罪人のためのガゼボ

 紡ぐ日々の色合いは変わることがなく、がフォンテーヌ廷を出歩くことも変わらない。仕事が彼女を待っていることも、それをひとつずつ済ませてゆくことも。その日も普段と同じようにやるべきことを終えたから、どこかでひと息入れようかと、道行く足取りをゆ…

ケーキ・ドームの内側から

 ヌヴィレットとの打合せを終え、彼の執務室をあとにする。叶うならば会議のあとには紅茶の一杯でも楽しみたいところではあったが、本日も多忙な審判官殿は午後にエピクレシス歌劇場で行われる審判のため間もなくパレ・メルモニアを発たなければならないらし…

花びらは砂糖に埋めて

 丁寧な見送りを受けるとともに重厚な扉を開き、煌びやかな『ホテル・ドゥボール』から夜の緞帳が下りて久しいフォンテーヌ廷へ足を踏みだす。流れる空気はしっとりとしていながらも僅かな冷たさを孕んでいたから、リオセスリは自らの右腕へ身を寄せる女性の…

真珠は海に、星は夜空に

▽ 細やかに敷き詰められた石畳をようやくすべて磨き終え、折り曲げていた身体をようよう引きあげる。全身に痛みと倦怠感、大きく息を吐きだして夜空を仰ぐ。見あげたとて網膜が軋むことのない、微かなひかりが散りばめられているだけの濃紺。海底によく似た…

花はほころぶ、蝶は飛ぶ

「いっただっきまーす!」「はいどうぞ、たくさん召しあがれ」 お夕飯の時間になったら全員集合して、みんなで一緒に食卓を囲む。我が家のルールはいつも通り、今日のご飯も味は最高。ジャガイモの煮っころがしが美味しくてそればっかり食べちゃってたら「こ…

主よ、人の望みの喜びよ

 太陽がじりじりと頂点を焦がし、皮膚にはじっとりと汗が滲む。蒸発しきらない水気が頬を伝い、それを手の甲で拭って吐く息にすら熱がこもっている。肉体持つ生命のすべてを燃やさんとする夏の日差しは、けれど植物たちにとっては腕を伸ばすほど待ち焦がれて…

キッチンから愛を込めて

「それじゃあ行ってくるけど……本当に大丈夫?」「大丈夫だってば、子どもじゃないんだから。お母さんこそ、気をつけてよね」 夏休みが始まって、三日目のこと。家を空けることになった母を見送ろうと立った玄関では、大きなキャリーケースを引いた母が、そ…

獅子への嫁入り

 目が覚めて、肉体を起こし、支度を整える。ひとの身を得ることで増えた手間は手がかかると同時、快く心地好い。そもそも余分な行為を愉快に感じるこころがなければ、人間と同じ姿かたちでの受肉はしまい。獅子王は稲穂色の髪を飾りのついた結い紐でひとつに…

02:反りが合わない刀もある

 定めた業務時間が終われば、この本丸においては翌日の業務開始までが自由時間。夕食は全員で食卓を囲うことがすっかり定番化したけれど、正直それも自由参加だ。まあその食卓に便乗すれば自分で食事を用意する必要がなくなるので、そりゃあ誰もがそこに集う…