文章

子供の情景

◇ ぼうっとしている間にチャイムが鳴る。顔をあげて教室にかかった時計を見たら、下校時刻の三十分前。溜息が出る、けど今更なにか思うこともなかった。 なにもしないでいるなんて、いまに始まったことじゃない。 教室の鍵を先生に返して下駄箱に向かう。…

どうか扉を叩かないで

 静かな空間で、本をめくる音だけが空気を僅かに震わせる。もしくは、ペンを走らせる音だけが。市場の喧騒から遠く離れた、大樹のさなか。スメールにおいて最たる知識の貯蔵庫でそれらを吸収していたは、鼓膜の拾いあげた異音によってその意識を中断させた。…

美しき未来のための日々

 目の前へ広がる光景に、息を呑む。美しき夜明け、生きとし生けるすべてのものに注がれるひかり。陽光によって煌めく水平線が網膜を焼く、その一閃に心臓が軋むほどの歓喜を覚える。滅んでなお鮮烈な王の威光を思って詰まらせていた息を細く吐けば、不意に右…

もう神様はいないから:後

 教令院での用事を済ませたセトスが踵を返そうとしたところで、見慣れた人影が視界に映る。認識はほぼ同時だったから、互いに驚くこともない。セトスが「やあ」と気さくに手を振れば、相手は微かな首肯を返答とする。いかにも彼らしい振舞いに、セトスは自然…

もう神様はいないから:前

 固い土の地面を歩き続けて、どれほど経っただろうか。しっとりと水気を孕んだ空気に包まれながら、鬱蒼と生える木々を脇目に道をゆく。ひとや馬車の往来を重ねるうちに固くなったのだろう足元の感触は、まるで知らないものだった。 道から外れた先で短く映…

グッドナイト・ベイビー

 止まっていた風が僅かに揺らめいたから、ひとの出入りに意識が触れる。灯りのしたで顔をあげたは見慣れた姿を見止めると、瞳のふちを緩ませた。「おかえり、セトス」「ただいま、。まだ本読んでたの?」「読みごたえがあったものだから。そういうセトスは、…

森海遊泳

1. 歩を進めるごとに踏みつける草は多分に水気を含んでおり、柔らかな草の間から朝露の名残が染みては大地へ還元される。平野部のものと比較した際、この地域の植物は水分による根腐れを起こすことがほとんどない。それは、湿地帯に根差した植物たちが採択…

シュガー・ポット

 目を覚ます、意識は自然と覚醒する。カーテン越しに差し込む陽光によるものではなく、クロックワーク・マシナリーほどに正確な体内時計によって。囚人時代の圧政下があったために寸分の狂いもない時間測定機構を身につけられたのだから、ギフトとはどこで得…

微睡みのまほろば

 アジトの椅子に腰を下ろして、火種のない暖炉をぼんやり見つめる。見つめるというより、視界に映った光景のどこにも焦点を定めずただ視覚情報を緩く認識している状態。すべての輪郭が僅かにぼやけた世界に浸っていれば、おうい、声をかけられた。 がぱっと…

落翼

 深夜の要塞は、いっそ不気味なほどに静まり返っている。罪人たちは管理者の飼育計画に則り床へ就き、意識ある者はいて精々が不寝番程度。パイプの中を通り抜ける水の音だけがごうと唸って、今宵は一際にそれが耳障りだった。「管理者への面会を。許可は取っ…

たとえ真珠が白くなくても

 世界がのすべてが寝静まる夜、デスクに広がっていた書類をまとめて息を吐く。夫の淹れてくれた紅茶もすっかり冷めてしまっていて、ティーカップのふちはひんやり冷たい。それでも滲む茶葉の香りは、のこころを解きほぐす。二度目の吐息は心地好く。ふ、と肩…

罪人のためのガゼボ

 紡ぐ日々の色合いは変わることがなく、がフォンテーヌ廷を出歩くことも変わらない。仕事が彼女を待っていることも、それをひとつずつ済ませてゆくことも。その日も普段と同じようにやるべきことを終えたから、どこかでひと息入れようかと、道行く足取りをゆ…