熾った種はカンテラへ - 1/4

 そういえば、とその声をあげたのは、いまから思い返してみれば果たして誰であったのか。トーマにとっては仕事の一部でもある夕餉の支度の最中、縁側で幾人かが集まって絹さやのすじを取っていたときに、そんな声が漏れたのだ。
 九条鎌治と柊千里の婚姻騒動もようよう一段落つき、当時の噂話が羽を広げ始めるような頃。年若い者の交際だの結婚だのを絹さやの供にしていた使用人のひとりが、ふと首を捻ったのである。
「トーマもそういう話はとんと聞かないよなぁ。こんな美丈夫なのに勿体無い」
「へ……?」
 その言葉にトーマは思わず目を丸くさせ、それまで笑みとともにこぼしていた相槌も忘れてしまう。ぽかんとくちを開いたまま呆けていると、そうよねぇ、と頷く声が隣から更に膨らんだ。
「神里家に一番仕えてくれてるのはわかってるけど、トーマさん自身のことも考えてもらわないと」
「そうそう、稲妻で誰かを娶ってくれれば私たちも安心だしね」
 浮く話のない家司に対する、優しいお節介。そこに少しの明るい話を期待するような、華やいだ声。トーマは使用人たちの笑顔を幾つも向けられるなか、ようやく自身を支配していた硬直から解放される。それでも余韻のように頬を引き攣らせながら、彼は辛うじて笑みをその顔に浮かべてみせた。
「えーっと……オレ、これでもお付きあいをしてるひとは、いるんだけどな……」
 苦笑とともに告げれば、ぽかん、トーマと入れ替わるように彼と絹さやのすじを取っていた面々の目が丸くなる。発露された事実を飲み込むまでの数秒間は、トーマの告白を誰も知らずにいた証左。その事実にこそ、トーマは苦い笑みを深くした。
「え、えええっ!? 初耳だぞ!?」
「そうよ、相手は誰!? 綾人様と綾華様はご存知なの!?」
「っていうか隠してたの!? 水くさいわよ、トーマさん!!」
 そして数秒ののち、絹さやの入ったざるが引っ繰り返りそうな勢いで使用人たちは前のめる。トーマは重心の崩れかけたざるをさり気なく押さえながらも、勢いを受け流すように上半身を僅かに下げた。
「隠してたわけじゃないよ、若とお嬢も知った相手だし」
「おふたりもご存知……ということは、やんごとない身分の方か?」
「実は私たちみたいな、神里家の使用人だったりして……」
 途端にそわつきトーマから真相を知りたがる瞳が向けられ、うーん、唸り声をあげそうになってしまう。相手の見当すらつけられないほど秘した交際をしているつもりがなかったから、彼らの驚きはトーマにとっても随分と予想外の反応であった。
「城下町の、芸者の怜さんだよ。雷電将軍へ奉納する神楽の件とかで、神里家にも何度かきてただろ」
 名を告げれば、使用人たちは納得したような、それでも驚きの余韻を残すような吐息とともに緩く頷く。それでもまだトーマの言葉は信じきられていない様子だったから、どうしたものかと首を捻りながら、とりあえず絹さやをひとつ手に取った。
 怜は告げた通り名うての芸者で、鳴神大社へ仕える巫女でないにも関わらず雷電将軍へ直々に舞を奉納することが許されたほどの人物である。舞踊はもちろんのこと三味線や太鼓に琴といった楽器の扱いにも優れており、歌については唄うも詠むも見事なものであるとのこと。稲妻の芸事のすべてを修めているといっても過言ではない人物が、トーマの恋人であった。
「ははあ、あのひとが……」
「確かに、ふたりとも絵になるものねぇ」
「でもその割に、ふたりが一緒にいるところなんて見たことないわよ」
「そりゃあそうだ。芸者さんにあんまり付きまとってたら、仕事を邪魔してしまうじゃないか」
 怜が神里家へ訪れるときは決まって社奉行との仕事があるのだ、そこへ恋人として関わろうとするほど立場を忘れるようになった覚えはない。それに、聞けば芸者とは相当な人気商売であるという。ならば見目麗しい芸者の周りに男が我が物顔で付きまとっていては、客は決して良い気にならないだろう。
 トーマは自ら身に着けた技巧で一流と呼ばれるに至った怜を尊敬しており、彼女の立場や仕事を揺るがしたいわけではないのだ。だからこその節度に対し「それはそうだけど」と何故だか不服そうな声。その理由を察していないわけではない、が、トーマにとっては腑に落ちない。思わず絹さやのすじが途中で切れそうになって、指先のちからを密かにほどいた。

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 稲妻城の城下町、花見坂の更に裏手。表通りを曲がった先の小路をすり抜けて、扉のふちをこつこつ叩く。四度のノックは来訪の合図、下桟に引っかかりながらも扉はすぐさま開かれた。トーマにとっては見慣れた人物の姿に、眦が自然と綻んでゆく。
「怜! こんにちは」
「こんにちは。いらっしゃい、トーマ」
 柔らかな微笑とともに、怜はトーマを長屋の一室へ招き入れる。「ごめんなさいね、散らかっていて」そう申し訳なさそうに告げられるが、むしろ怜の部屋はその立場を思えば驚くほどに質素で整然としている。そんなことないと言葉を返せば、彼女はそっと微笑んだ。
「待ってて、すぐお茶を淹れるから」
「うん、ありがとう。あと、はいこれ。オレもお茶菓子持ってきたんだ」
「まぁ、こちらこそありがとう。トーマの持ってきてくれるお茶菓子はいつも絶品だから、嬉しいわ」
 トーマとしては怜と台所で隣りあっていたかったが、客人が厨に立っては家主を恐縮させてしまうことを彼は知っている。そのためトーマはいつも持参する茶菓子に彼女の隣を任せて座敷へあがり、そこで胡坐を掻きながら先日の出来事を思い返した。
 トーマに恋人がいたとは思ってもみなかったといわんばかりの、周囲のひとたちの驚いた様子。それがどうしても引っかかってしまうのだ、なにせトーマは彼女との交際をひけらかしてこそいなかったが隠してもいないつもりだったから。
自他の認識が一致しないのも間々あること。だが、もしかしたら。馬鹿げた思いがつい浮かび、据わりの悪い心地が丹田でむずつき始める。トーマは場違いなほど甘い緑茶の香りに顔をあげると、ふたりぶんの湯呑みと茶菓子を盆に乗せて座敷へ上がった怜にまっすぐ目を向けた。
「……ねぇ、怜」
「うん? どうかしたかしら」
 湯呑みと小皿を卓袱台へ並べた怜の手を、恐る恐る掬いあげる。彼女はきょとんと首をかしげたが、湯呑みに触れていたせいで指先のあたたかな右手はトーマに包まれるがまま。細く白魚のような手に触れながら、トーマはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……オレは、君の恋人だよね」
 あくまで確認するように、肯定を強制するような強い気持ちはあくまで込めず。けれど願う思いだけは抑えられずに滲んでしまったかもしれない声に、怜はますます不思議そうな顔。少しばかりの困惑を覗かせた怜の指が、緩やかに折り曲げられた。楽器の弦を弾いてなお柔らかな指が、トーマの手をそっと握る。
「……貴方が、そう思ってくれているなら」
「っ、思ってるよ! ああ、よかった……!」
 そうして告げられた言葉に深々と安堵し、その勢いのまま上半身がぐにゃりと曲がる。思わず怜の手をぎゅうと握り締めれば、さらり、艶のある髪のこぼれる音がした。怜がまた首をかしげたのだ。
だが彼女にとっては疑問を浮かべたくもなるだろう、顔をあわせた恋人から突然その関係を指差し確認されたのだから。「ごめんな、突然」トーマは眉を下げながら謝罪をすると、垂れた頭をゆるりと持ちあげた。
「前に神里家の使用人たちと喋ってるとき、ちょっとね。どうやらオレは恋人がいないように見えていたらしい、ましてその相手が君だなんて想像もされなかった。だから、オレが勝手に君を恋人と思い込んでるだけだったらどうしよう、なんて考えてしまって」
「まぁ」
 自身と周囲の認識にあまりにも齟齬があったものだから、自意識過剰を疑いたくもなるというもの。トーマが苦笑とともに経緯を告げれば、怜は目を丸くさせてからくすくすと笑いだしてしまった。
「おかしな勘違いもあるものね」
「冷静に考えれば、そんなことないってわかるんだけどね。みんながあんまりにも驚くから、つい」
「それも無理ないわ、九条様と柊様ほどの方でもなければ広まりようもないのだし」
 微笑ましいといわんばかりの笑い声に照れて肩を竦めれば、怜はまるで幼子を宥めるようにトーマの手をゆるりと撫でる。「それでも不思議と、広がるときには広がってしまうのだけれど」そうして何気なくこぼされた言葉に、緩やかな首肯。生き物のような巧みさで人波に紛れる噂話の性質は、トーマもよくよく知っている。
「でもまぁ、君に妙な噂が付きまとっていないことには安心したけどね」
「あら、心配してくれているの?」
「当然だろう、そのせいで君がお座敷に上がれなくなったりしたら大変じゃないか」
 節度と礼儀を弁えた交際に努めた結果として好いた相手の実在性を驚かれてしまうのは心外だが、そのお陰で彼女の身辺の安全が守られているのであればかまわない。ようやくひと安心したような心地で怜の手を解放すると、彼女の淹れてくれた緑茶に指を伸ばした。深い苦みと滲む甘みに、ほうと安堵の息が漏れる。
「……優しいひとね、貴方は」
 やがて怜もそう呟くと、両手で湯呑みを包み込んだ。