誰に見止められることもなく、一般市民の顔をして水の上を悠々と進む。紙袋のなかには焼きたてのスコーンと、瓶いっぱいに詰まったマーマレード。フォンテーヌでは誰もが手に取り、舌鼓を打つものだ。だからこそ、ありふれた買い物が彼を一般市民に擬態させる。水の上に生きる多くのひとびとは、メロピデ要塞の管理者がスコーンの焼き上がりを待つとは思わないからだ。
小さな紙袋を片手に水の上へ構えた邸宅の扉を開き、境界線を跨いだのちに閉じた扉をノック・ノック。その指で錠もかけたところで、軽やかな足音が鼓膜に触れた。
「リィリ、おかえりなさい!」
「ああ。ただいま、セリン」
セヴリーヌは一見してそうとわかるほど幸福に満ちた顔で笑みを浮かべ、リオセスリに腕を伸ばす。別居生活を続けて長いというのに、彼女はリオセスリが水の上の家へ戻るとき、いつもそのかんばせを喜びで彩るのだ。続く愛に混ざる停滞を知らない彼女の姿には、リオセスリも自然とその眦をほころばせた。
彼もセヴリーヌと同じだ、妻から贈られる帰宅の挨拶はいつだって瑞々しく喜ばしい。彼女との体格差を埋めるために膝を曲げて背中を丸めることへ、幸福感を覚えている。そうすればセヴリーヌの細い腕はリオセスリの首に回されるから、リオセスリは荷物を持たない手を彼女の腰へ回した。
身を寄せあい、頬を重ねる。くちびる同士を淡く触れあわせる、無防備な身体接触が愛しい。少しばかり溢れた感情で彼女の額にもくちづければ、返礼のように顎先へ小さな熱の感触。いつまででも続けていられるのが、ときとして困りものだった。
「悪かったな、遅くなって。鼻先までいい香りが漂ってたから、我慢出来なかったんだ」
「まぁ! 嬉しいわ、ここのスコーンとっても美味しいもの。それに、マドレーヌも!」
「代わり映えしない手土産だけどな」
「リィリにいいことを教えてあげる。変わることのないプレゼントを愛するひとから贈られるのって、とっても嬉しいことなのよ」
くちびるを離して腕をほどき、まだあたたかな紙袋をセヴリーヌへ示してみせる。フォンテーヌ廷では特段珍しいものではないというのにも関わらず、彼女は頬を赤らめてリオセスリからの贈りものを喜んだ。
そうして彼女のくちびるから紡がれる愛の講釈に、リオセスリの胸のうちが心地好く軋む。当たり前の愛情を無意識へ溶かすことなく、その質量を両手で正しく掬いあげてキスをする。セヴリーヌの、その誠実さと情深さを愛しているからこそ、彼女にとってはなんてことのない言葉がリオセスリを充足させた。
「さぁリィリ、手を洗ってきて頂戴。そのあとは、貴方の買ってきてくれたスコーンでお茶にしましょう」
「ああ。気を付けろよ、瓶が重いから」
「ふふ、ありがとう」
年上であるリオセスリを子どものように扱うセヴリーヌの無邪気な振舞いに笑みをこぼし、彼女の腕にあたたかな紙袋を託す。マドレーヌの瓶も入った袋を両手に抱えてくるりと身を翻す姿こそ、どこか幼いものなのだけれど。その稚さも自分の前でだけ露わになるものだとわかっていたから、キッチンへ向かった後ろ姿が愛らしかった。
そこまで思考を巡らせて、リオセスリは小さく息を吐く。妻への愛を失認したことなど一度もないが、それにしたって今回の帰宅は感情が意識の制御に収まらない。セヴリーヌの前で隠すものでもなかったから不格好に格好を付けようとは思わなかったものの、浮かれた自分を俯瞰した意識で認識すると、ささやかに据わりが悪かった。
だがまぁ、それも仕方のないことだ。そう開き直るくらいには、据わりの悪さごと、リオセスリの制御から外れる感情を認知している。
明日はリオセスリとセヴリーヌだけの記念日なのだ、柄にもなく浮かれてしまう。
リオセスリがリビングへ足を向け、家を空けていた間も変わらないソファに腰を下ろして息吐いていれば、やがてセヴリーヌが両手にそれぞれトレイを持って現れる。片手にはティーポットと揃いのティーカップ、もう片方の手にはスコーンとマーマレードたち。ソファから立ったリオセスリが彼女の手を塞ぐトレイを掬い取れば、セヴリーヌはくすぐったそうに微笑んでから「ありがとう」と柔らかく言葉を紡いだ。
そのあとはソファをふたりで分けあい、華やかな香りの紅茶を分けあい、あたたかなスコーンとマーマレードをともに分けあう。たっぷりのクロテッドクリームと、少しのマーマレード。それがセヴリーヌのお気に入りだった。
リオセスリもマーマレードをスコーンに塗って、さっくりとした生地に舌鼓を打つ。表面は歯を立てれば小気味よく、けれど内側は柔らかい。その質感の差を味わいながら、紅茶でくちびるを濡らしたセヴリーヌの声に耳を傾けた。
生活をともにしていない日々のことは互いの業務上で取り交わす書類と、それらの間に忍ばせた手紙で伝えあっている。けれど限られた文面は情報量に乏しく、互いの顔を眺めながら交わす言葉には程遠い。だからこそ水の上では、ティータイムが殊更に格別だった。
「……その舞台のダンスシーンが、本当に美しかったそうなの。新聞でも連日取りあげられて、フリーナさん、しばらくお買い物にも行けなかったんですって。先日久しぶりにお茶をご一緒したのだけれど、オフを外で過ごすこと自体が久しぶりだって仰ってたわ」
恐らくはセヴリーヌも、この時間を喜ばしく感じているのだろう。水の上で流行の渦を編みあげているらしい舞台を語る表情は華やいでおり、友人と過ごす昼下がりを語った声は生き生きとしたもの。それにリオセスリがそういうことかと呟けば、セヴリーヌはきょとんと瞳を丸くさせた。
「外を歩いている間、やたらと舞踏会の話を耳にしたもんでな。成る程、フォンテーヌ廷の流行の最先端ってわけだ」
「ええ、そうみたい。シュヴルーズさんからもお伺いしたわ。舞踏会を開催される方が増えているから、そのためのドレスを『千織屋』に依頼する方がたくさんおられるんですって」
お陰でシュヴルーズさん、『千織屋』さんのお使いを頼まれそうになってしまったそうよ。互いの生い立ちと立場ゆえセヴリーヌと親交の深い特巡隊隊長の穏やかな日常を垣間見て、リオセスリも小さく笑みをこぼした。
「それじゃ、俺たちは運がよかったのかもしれないな。もう少しでも注文が遅れてたら、あんたのドレスが間に合わないところだった」
「それはリィリのスーツもよ。おめかしをするのは、女性だけじゃないんだから」
海底の監獄には、水の上で広がる煌びやかな流行の話題など届かない。そのため私用の依頼がフォンテーヌ廷の流行のすぐ傍にあったことも、セヴリーヌのくちから聞かされるまで知らなかった。どうやらタイミングがよかったらしいと喉を鳴らせば、小さなくちでスコーンを頬張っていたセヴリーヌが嚥下ののちに、リオセスリが浮かべているものと同種の笑みでくちびるを飾り付ける。その上機嫌な表情が、少しばかりむず痒かった。
記念日のたびにそうしているわけではない。だが今回は、正装を新しく仕立てることにした。自らに対する贅沢を苦手とするセヴリーヌの胸中はしばらく揺らしてしまったが、愛するひとを自分の贈ったもので一層美しく彩りたいというリオセスリの望みに頷いてくれた。それどころか、彼女はリオセスリの手をそっと包みながらこう告げたのだ。「それなら私も、貴方を美しく彩りたいわ」と。
彼女自身がそうあれかしと望んだ、パートナーとの愛の循環。罪悪に因らない、彼女曰くの我儘。それがなによりもリオセスリを喜ばせ、彼女の望みを快諾した。そうしてふたりは互いへの贈りものを、流行の波にさらわれてしまう前にそれぞれ選んだ。
「……ふふ」
「どうした?」
「楽しみだと思ったの。きっと貴方に似合うから」
交わしあうものは届いている、その色かたちも互いに認識している。それでもまだ腕を通してはいないから、セヴリーヌは夢見るような甘い表情でくすくす微笑む。彼女のその姿が愛しくて、ティーカップをテーブルに戻した指でセヴリーヌを抱き寄せた。
「ああ。明日が待ち遠しい」
「……じゃあ、今夜のお夕飯は?」
「もちろん、それも待ち遠しい」
「ふふ、おそろいだわ」
夢見る少女のような表情だけではない。リオセスリをからかうように言葉を紡いでは微笑む姿も、抱き寄せられるままリオセスリへ寄せられる熱も、すべて。