マセラシオン - 1/2

 首をほんの少しだけ振って、本当に少しの眠気を払う。わたしにワインを持ってきてくれたチャールズさんは呆れたような顔をしたけれど、その程度でわたしの決意は揺らがない。「毎日ご苦労なこって」そう笑ったのは、誰だったかしら。あんまり覚えていないのは、そう、きっとわたしが盲目だから。
 塞がった目でエンジェルズシェアをきょときょと見回しても、やっぱりそこは虚しいまま。アカツキワイナリーのワインは当たり前に美味しいのだけれど、チャールズさんの用意する軽食はとっても美味しいのだけれど、欲しいものはそこにないから。勝手に尖ってしまうくちびるを塞いで、代わりに身体を満たす芳醇な香り。つん、と最後に身体から抜けていく切れ味は、ほんの少しだけ、わたしみたい。そんな感傷を抱いた、そのときだった。
 お店のドアが静かに開く、ドアベルはささやかにかろんと鳴る。夜に溶けたひとがいる、そのまま夜半が訪れる。わたしの待ち望んでいた姿、わたしの虚しさを塞ぐひと。思わずテーブルを立って、カウンターの一番端までまっすぐ向かった。
「ロサリア!」
「……なに、またきたの」
「うん。あなたをずっと待ってたのよ」
 彼女は夜がすっかり更けないと、酒場にすら現れない。シスターなのに真昼の教会にもいないのだから、どこか御伽噺めいた不思議を持っている。わたしは彼女に少しでも出会いたくて、毎日欠かさず教会へ通っているのに。けれどロサリアにそう告げたとき、彼女はいまとまったく同じ顔を浮かべていた。
「ああ、そう。結構なことね、約束もしてない相手を待ち続けるなんて」
「ロサリアが約束してくれないから、ずっとあなたを待ち惚けているのよ」
「約束する義理がどこにあるのよ。私たち、そんなにご立派な関係だったかしら」
 わかりやすい呆れ顔、まるで小馬鹿にされているみたい。でもわたしがなにをしたって、誰にだって、馬鹿にされる謂れだけはない。ロサリアに目を吊りあげて見せたら、彼女の顔に乗った感情ばかりが深くなる。いまのは呆れるところじゃないわ、と。起こしてしまいそうになる癇癪を堪えて、バーテンダーからお酒を受け取るロサリアの手に触れた。
「だってあなたが、そうしてくれないから」
 言葉で、顔で、行動で。わたしのすべてで愛を伝えても、彼女はそれに見向きもしない。彼女と似合いになりたくて試した背伸びは笑われて、彼女を真似てみようとしたら腕を掴まれ騎士団に保護を依頼されてしまって。ロサリアからの扱いは、よくて精々が子ども扱い。いまだって、彼女はわたしに取りあってくれやしなかった。
「君は私と好い仲になりたいのかもしれないけど、私がそれを望んでるとは限らないでしょう?」
「なあに、好い仲って。もっとはっきり言って、恋人って」
 指はするりとほどかれて、蒲公英酒がロサリアのなかに溶けていく。そのまま言葉も消えてしまって、面白くないったら。
 こうしていつも、わたしばかりがロサリアに振り回されて終わってしまう。回る風車と同じ繰り返し、それを見あげながらくちびるを噛み締める。ねえ、ロサリア。駄々を捏ねそうになったところで、わたしと彼女の前にお皿がひとつ差しだされた。
「たまには付き合ってやったらどうだ」
「なに、これ」
「こいつが用意してたんだよ、あんたのためにな。怒ってすっかり忘れちまってたみたいだが」
 チャールズさんからの心づかいに、はっとする。そう、彼の言う通り。もしもわたしが帰るまでに、ロサリアがこなかったとしても。わたしの用意したものが、きちんと彼女へ届くように。笑うチャールズさんに肩をすぼめて、お礼とお詫びの代わりにお酒のオーダーをひとつ。新しい注文に、彼はバーカウンターのほんの少し奥側へ。
「……で、これは?」
「ロサリア、いつもお酒ばっかりでしょう。たまにはごはんも食べないと、って思ったの」
 彼女がエンジェルズシェアを訪れるとき、くちびるが触れるのはひんやりとしたグラスばかり。ときどきはナッツやポテトを食べてもいるけれど、それじゃあ冷たい身体をもっとひんやりさせるだけ。温め直されたミート・パイのお皿をロサリアの前にまで移したら、また呆れたような顔をされるから、わたしもまた、むっとしてしまった。
「好意の押しつけは独り善がりなだけよ」
「あなたが食べてくれたなら、独り善がりじゃなくなるわ」
 ドラゴンスパインから吹きつける風より冷たい声。清泉町の滝壺へ突き放すような音。でもそんな程度で折れるなら、どうしてあなたに恋し続けられるだろう。わたしの思いは誰にだって、馬鹿にされる謂れはない。
 わたしが言い返すと、ロサリアは驚いたようにほんの少しだけ目を丸くさせる。そこでようやっと、呆れた以外の感情が浮かんだから。それだけで嬉しくて、笑ってしまった。
「嫌いだったら、それでもいいわ。それだって、独り善がりじゃなくなるもの」
 わたしは彼女に恋をしている。だから一目だって会いたいし、わたしの思いを知ってほしいし、本当だったらそれを彼女のなかに置いてほしい。けれどロサリアは、そうしない。わたしと出会ってくれないし、わたしの思いを聞いてもくれず、言葉はいつもお酒の合間にごまかされる。わたしは、それが嫌だった。
「ちゃんと話して、きちんと教えて。わたしが独り善がりなのは、あなたが受け取ってくれないからよ」
 百歩譲って、千歩譲って、もっともっとたくさん譲って、彼女がわたしを好きになってくれないとしても。それよりも、ロサリアがわたしを受け取ってくれないことが嫌だった。
「やっぱりただの押しつけじゃない」
「だって押しつけないと、なんにも言ってくれないじゃない」
 手放してもいい、でも一度でいいからちゃんと触って。フォークでミート・パイを小さく切って、冷たい指にパイの刺さったフォークを握らせる。勝手に動かされた指を見下ろして、ロサリアは溜息をついた。
「我儘ね」
「だって、あなたが好きなんだもの」
 好きになるってそういうこと、恋をするって欲しがること。少なくともわたしの恋は、あなたに受け取ってほしい、という願い。ロサリアは相変わらず、ふうんと気のない返事をするばかり。
「!」
 でも今日は、ほんの少しだけ違っていて。わたしの贈ったものを、一欠片だけ受け取られていて。くちびるに運ばれた銀食器、本懐を遂げたミート・パイ。思わずこぼれそうになった歓声を慌てて飲み込んでいると、一欠片のパイを飲み込んだロサリアが顔をあげた。
「ワイン頂戴」
「今度は蒲公英酒じゃなく?」
「美味しいお酒に必要なのは、そのためのマリアージュよ」
 わたしにグリューワインを持ってきたチャールズさんは、からかうみたいに少し笑う。ロサリアはそれをあっさり受け流すから、やっぱり、ちょっぴり、心地好くない。でもそれも、今夜だけはよかった。
「美味しい?」
「不味かったら、残りは君に返してるわ」
 パイ生地のなかに詰めたわたしの恋が、いまこの瞬間だけは、あなたの手で、あなたのなかに運ばれているのだから。