砂のベールに触れてはならぬ - 1/3

 静かな空間で、本をめくる音だけが空気を僅かに震わせる。もしくは、ペンを走らせる音だけが。市場の喧騒から遠く離れた、大樹のさなか。スメールにおいて最たる知識の貯蔵庫でそれらを吸収していたイクリマは、鼓膜の拾いあげた異音によってその意識を中断させた。音と人間の気配が少ないからこそ、滲む感情は明瞭だ。足音は明らかに自分を目標としており、相手の様子を窺おうと探るような意思が神経の端に引っかかる。イクリマは密やかに溜息をこぼし、その視線を古代文字の群れから外した。
「なぁ。お前だろ、知論派の研究生って」
「……はい。イクリマと申します」
 イクリマの作りだした隙をそうとも気づかず、愚かな若者は偶然を気取ってイクリマの隣の椅子を引く。名乗りもしない青年は自らの放った質問に対する回答だけに満足し、やっぱりな、と笑っていた。
「いまから時間を取れないか? 次の研究課題がどうしてもまとまらなくってよ」
 そうして男は、無遠慮なまでに自身の目的を告げる。イクリマは眉をひそめたくなる思いを堪え、溜息の代わりに「はあ」と曖昧な音を返した。
 イクリマが知恵の殿堂へ通い始めてから、しばらく経った頃のことだ。ランバド酒場でセトスと食事をしていると、因論派の学生たちから声をかけられたのである。曰く彼らはセトスの友人であり、知恵の殿堂で見かけるようになったイクリマと話をしてみたかったのだという。
 彼らは砂漠を知りたがった。砂の海に眠るもの、その伝統と意義を聞きたがった。けれど太陽の否定に端を発する学徒たちへイクリマが与える知識など、なにもない。『沈黙の殿』の知識はごく限られた者にしか開かれておらず、また砂漠の信徒としても、烈日への敬意を持たぬ雨林の学徒へ分け与える知見など持っていなかった。
 だからイクリマは自身の内側を告げることはなく、代わりに彼らの言葉を拾っては幾らか練磨して差し返した。学徒とは総じて、自身の研究課題と持論を正当なものとして語りたがる生き物なのだ。イクリマが適度に相槌を打ちながら言葉を返せば、彼らの浅い自尊心は容易く満たされた。彼らは邂逅の目的が果たされていないことに気づきもせず、ただ浅はかな自尊心に酔ってその場は終息した。
 セトスの手を借りながらも学生たちの急な接近に適切な対応をした、そのことに安堵をしていたのも束の間のことだった。それからイクリマは知恵の殿堂やその出入口で、学生たちから声をかけられるようになったのである。
 彼らは一様にこう言った。「ちょっと話を聞いてほしい」。件の学生はイクリマとの対話を経て、研究テーマや研究手法のなかに潜んでいた課題を発見した。そしてそれらを再考することで、研究室内で高い評価を受けたそうだ。周囲からの賞讃に酔った学生たちは、研究の質が向上した理由にイクリマを挙げた。彼と話をしていると頭が整理されるんだ、と述べたという。
 つまるところ、浅慮な学生たちはイクリマを思考整理の手段として活用するべく彼の下へ通うようになったのだ。全く以て頭の痛い、吐き気すら覚える話であった。
「……すみません、本を読んでいる途中でして。それに、ここは歓談の場にも適しません」
「お前、研究生のくせして授業も出ずに本を読んでるだけだって聞いたぜ。暇な研究生にとっちゃ時間なんて有り余ってるだろ、ちょっとぐらい付きあえよ」
 親交のない相手に対して無遠慮な態度で以て声をかけてくる人間は揃って礼を欠いていたから、不快感は一層に深くなる。イクリマは知恵の殿堂へ出入りするため特別に研究生という立場を工面されていたが、それが彼らの傲慢に拍車をかけていた。
 雨林と砂漠、教令院へ正式に属する学生と非正規な研究生。知識に胡坐を掻いた雨林の民は、無知な砂漠の人間を無意識に踏み躙ろうとする。対等な人間同士の交流を選択肢に含めてもいない人間の姿に、今度こそ溜息を吐きだした。
「おい、なんだよ」
「……いえ」
 セトスが雨林との共存を望み、教令院との協力を選ぶのなら、それに否を唱えるつもりはない。けれど彼らは、果たして共存に値するべき存在なのだろうか。かつての祖先の嘆きが、イクリマの内側で熱を持つ。『沈黙の殿』は既に一度、愚かなる雨林の学徒から凌辱を受けているのだ。
 少なくともこの優良市民気取りの人間は受け入れ難く、もし彼が砂漠へ立ち入るようであればその身は速やかに刈り取られるべきだろう。イクリマが学生の顔を認識しようと視線を動かした、そのときだった。
「最近、知恵の殿堂が騒がしいと聞いていたが。どうやら原因はここにあるらしい」
 聞いたことのない声が、イクリマと学生の間へ入り込む。僅かに顔を動かせば、そこにはやはり知らない男が立っていた。学生は彼を認識した途端にその身を硬直させたから、教令院においてはその名を知られた人物であるらしい。
「すみません、お騒がせをしております。じき退室しますので」
 教令院の権力者に目をつけられてしまっては、セトスの害となりかねない。古文書の読解を諦めたイクリマが席を立とうとすると、男は怪訝そうに眉根を寄せた。
「君が退室する必要はない。君たちの会話は聞こえていたが、君の対応は模範的なものだ。知恵の殿堂にある資料を確認しながら意見を交わすのならばまだしも、ここには無関係の雑談で周囲の集中力を阻害するのは、この場に適切な行為ではない。退室するべきは彼だろう」
 僅かな眉の動きひとつで男はイクリマの動きを制し、その視線だけで硬直した学生の身を震わせる。そして男は、学生を無言で見下ろし続ける。膠着状態で取るべき行動もわからずイクリマが己の指を握り締めていると、やがて学生が震えるくちびるを押しあげた。
「っで、でも、課題のために必要なら」
「君の行動における問題は、主にみっつある。ひとつは彼が告げた通り、ここは雑談の場ではないということ。課題の相談なら空き教室を使うといい、無論利用申請は必要だが。ふたつめは、公の場で研究課題の相談をするべきではない。君たちの雑談を聞いていた者が、その内容を盗む可能性があるからだ。課題へ真摯に取り組もうとするのであれば、自分の研究を守る方法を確認しておくべきだろう」
 学生の反論を、男は正論で打ち砕く。感情の灯らない正しさの列挙はときに暴力的で、男はその攻撃性を把握したうえでその言葉を選択しているようだった。低い声が淡々と響くたび、目の前の学生が竦みあがる。否、彼だけではない。その声に触れてしまった学徒は一様に、その肩を竦ませていた。
「そして、みっつめだ。研究生を見下げた発言は感心しない、学生も研究生も学徒である点においては対等だ。仮にそのふたつの立場に優劣が発生しており、学生のほうが優れているとしよう。それならば学生の君が研究生の彼に助言を求める状況は、本来発生し得ないはずだ」
 そのうえで最初の君の発言を正とするのなら、君たちの立場は入れ替わっているべきだろうな。
 痛烈な男の言葉に、学生は拳を握り締めて押し黙る。けれど正論への反論を試みる様子がないのは、男の正論に非の打ちどころがないからだろう。「わかったら行くといい」それでも学生への逃げ道が用意されたのは、彼なりの温情か。イクリマは屈辱で顔を真っ赤に染めながら立ち去る学生の後ろ姿を見送り、やがて淡く息ついた。
「……ありがとうございました」
「かまわない。仕事の一環だ」
 誰とも知らぬ教令院の権力者へ頭を下げれば、男は短い返答とともに首を振る。そして彼は先ほどまで学生が座っていた椅子に腰を下ろすと、その手にあった本をおもむろに広げてみせた。ページをめくる指の動きが速いから、読書ではなく資料確認のため知恵の殿堂へ訪れたのだろう。
「先ほどのようなことが起きたら、俺に報告してくれ。それなりに対処しよう」
「それは……それも貴方の仕事、ということでしょうか」
 資料を確認しながらも、男は小声をイクリマに向ける。周囲の学生では拾うことが難しいだろう声量にあわせてイクリマも呟けば、彼は僅かに頷いた。
「君が不自由なくここを利用出来るよう気にかけておいて欲しい、と。草神から直々に承っている」
 そして、首肯とともにスメールを統べる神の名が告げられたから。イクリマは警戒で瞳を眇め、指を組み直しながら、そうでしたか、とまた呟く。
 研究生の立場を与えられた際、セトスを経由して草神から配慮の言葉は受けていた。イクリマのことは知慮に富み信頼のおける人物へ話を通してあるから、教令院の内側において有事が発生した際にはその人物を頼るように、と。イクリマが知論派へ属することになったのも、その関係であるらしい。
 つまりは、彼が草神曰くの協力者なのだろう。教令院に属している人間である以上、信を置くことは難しい。けれど彼がイクリマを助けたことも事実であったから、感情と事実を天秤に乗せた。針はまだ、どちらにも傾かない。
「では、貴方がアルハイゼンさんですか」
「ああ」
「ご挨拶が遅れました。イクリマと申します」
 だが彼が草神の腹心であるというのなら、露骨な懐疑心を向けるわけにもいかない。知恵の神から聞いていた名を確認してから頭を下げると、ああ、とまた短い返事が寄越された。
「さっきも言った通り、学生相手に困ったことがあれば報告してくれ。本職の役にも立つ」
「……書記官をされていると、お伺いしましたが」
「ああ、学生たちの研究活動に伴う経費申請の承認作業も俺の仕事でね。経費を割くのに相応しくない申請はすべて却下している。……たとえば自身の研究テーマすら自力でまとめられない学生に対しては、活動費用は支払われない。払った費用に相応しい成果を見込めないからな」
 相変わらず言葉は淡々と響いているが、その表情には浅学な学生への皮肉が薄らと浮かんでいる。だが彼の言葉は合理的で、妥当なものだ。少なくともイクリマに相談をしなければ自身の研究すら碌に進められない学生へ資金を割くほど、教令院は無能な機関ではないらしい。
「それでしたら、お伝えしましょうか」
「ほう、覚えているのか」
「名乗らない方がほとんどでしたので、名前はわかりかねますが。学派と研究課題の内容であれば」
 それならば、と。瞳を眇め、笑みめいた表情を顔に浮かべる。イクリマに相談してきた学生たちの研究課題を伝えて彼らの経費申請の様子を見守れば、アルハイゼンという人物の信頼性はある程度測ることが出来る。
 申請された経費の様子は、教令院のなかで少しばかり耳を澄ませていればいい。学生たちは総じてくちが軽い、自身の研究に関しては殊更に。経費申請が受理されたとなれば一際の歓声が上がるから、事実の確認はさして困難なものではなかった。
 イクリマはほどいた指でペンを取り、ささやかな記録を列挙する。真っ白だった紙片をそれなりに埋めてアルハイゼンに差しだせば、彼は興味深そうに一枚の紙きれへ視線を落とした。
「……成る程。協力、感謝する」
「いえ。おれも、先ほど貴方に助けられましたから」
 アルハイゼンはイクリマの環境保全も業務の一環だと告げていたが、彼としては雨林の学徒へ借りを作っておきたくない。礼の代わりに借りを返し、資料の確認も終えたのだろう立ちあがった男に小さく頭を下げる。その後ろ姿を見送ったのち、イクリマはようやく古文書に目を落としながら密やかに安堵の息を吐きだした。
 彼が信頼に値する人物なのかどうか、まだイクリマにはわからない。だが彼によっていまこの瞬間の静寂と安全が確保されたのは事実であったから、まずはそこへ腰を下ろすことにした。