スメールシティの片隅で、ただひっそりと息を吐く。視界に映る景色は知らないもので、伸びた道の先にあるものもわからない。それとなく周囲を見渡したところで知る顔もなかったから、イクリマは足を鈍く動かしながら苦い心地を無言で舐めた。
今日、セトスは雨林に戻らない。教令院の学生に依頼され、砂漠までの道案内を務めることになったそうだ。セトスがスメールシティに住まうただの若者として仕事を行う際、彼は基本的に単独で行動する。イクリマを連れたってはセトスに負担をかけるばかりであったから、それは正しい選択であった。イクリマは砂漠以外で他者を導くことなど叶わないし、セトスのように初対面の学生を相手取れるほどの社交性も持ち得ていないのだから。
だからイクリマは知恵の殿堂で本を読み終えたあと、バザールで買い物をして帰ろうと思った。だが大規模な依頼でもあったのだろうかシティに常駐している三十人団の数が普段よりも少なかったため、自力で目的地へ向かうことに決めたのだ。さして時間をかけることなくバザールへ到着したのは幸運だった、しかしやはり、タヘルもアズラも見つからない。仕方ないからひとりで家に帰ろうと、なんとかシティのなかを歩き回ってはみたのである。
だが結果として、彼は未だ雨林の拠点へ帰り着くことが出来ずにいる。シティを徘徊しているうちに太陽は眠りについてしまい、月が木々の合間から浮かび始める始末。烈日の遺構よりもなおイクリマを迷わせる雨林の迷宮に思わず溜息を吐きだした、そのときだった。
ふと、イクリマの隣を通り抜けようとした人物の身体が不自然に揺らいだ。歩行の途中で唐突な四肢の脱力、それに伴い細い身体が崩れ落ちんとする。そちらに手を伸ばしたのは、半ば反射的な行動だった。
「っ、え?」
「あ……すみません、出過ぎた真似を致しました」
だが崩れた身体を支えた瞬間、揺らいだ身体に芯が入り直す。石畳を滑りかけた足は確かなちからで床を踏みしめ、ぐらついた身体は垂直に伸びた。そのためイクリマの回した腕は異物となり、揺らめいた人物は驚きに目を見張る。イクリマが腕をほどきながら頭を下げると、その人物は目を丸くさせたのちに首を振った。
「あっ、ごめん、気にしないで。あたしがああなったから支えようとしてくれたんでしょ。ごめんね」
「いえ。貴方に何事もないのであれば、よかったです」
少女は自身のぶれた重心を自覚していたようで、苦笑しながらイクリマへと頭を下げ返す。彼女の行動を制するように笑みを浮かべてみせれば、少女はその瞳を何度か瞬かせた。淡い色彩の瞳は無遠慮なまでにはっきりとした動きでイクリマを観察したのち、ふうん、と小さな声が漏れる。それは明らかに、イクリマという人間を知った人物が取る行動であった。
「……なんか、ちょっと意外かも。貴方、優しいんだ」
「ううん、それはどうでしょうか……」
イクリマにとっては馴染み始めた感覚ですらあったが、眼前の少女に覚えはない。だが彼女の風貌から察するに、教令院の学生なのだろう。そして少女はイクリマと違い、彼の存在を認識しているようだった。曖昧な言葉で苦笑していると、少女は瞳を眇めて笑う。
「もしくは、あたしの思い込みだったのかもね。貴方っていつも無表情で本を読んでるから、冷たいひとなのかも、って思ってた」
「そうでしたか」
「うん、だから今日はいい日ね。認識を改められて、新しい発見があったんだもの」
告げられた言葉から推測する。どうやら彼女が一方的にイクリマの存在を把握していただけのようで、少女と会話をしたのはこれが初めてのことらしかった。一方的な認知もいまとなっては珍しいことではない、砂漠出身の研究生というラベルは実態を伴わずに独り歩きを始めていた。
だが、それならば過度に気を張る必要はないだろう。イクリマは少女の言葉へ、ささやかに微笑む。「それであれば、よかったです」淡く頷けば、彼女は軽快な歩調でイクリマの数歩先まで飛びだした。
「じゃ、あたしは行くわ。もうちょっと星図を書かなきゃいけないの」
「お気をつけて。星はよく見えますが、そのぶん暗くなっていますから」
「うん、ありがとう。貴方、本当に親切ね」
そして彼女はその場でくるりとターンをし、イクリマに手を振って天体観測へ向かおうとする。ごく一般的な別れの挨拶にも少女は喜色を露わにしたのち、ああそうだ、と瞬きとともに呟いた。
「悪いんだけど、今日のあたしはノーカンにしておいて欲しいの」
「……それは、どういう?」
「次に私と会ったら、そのときを「初めまして」にしてくれたら嬉しいってこと」
少女の言葉に浮かびあがる不自然さは、しかしイクリマが気に留めておくべきものでもない。彼女の名を知る機会は終ぞ訪れないようであったが、それはイクリマにとっても好都合だった。彼は恐らく、目の前の少女を確固たる存在として捉えられないだろうから。
「ええ、わかりました。では、ご挨拶はそのときに改めて」
「うん。それじゃあ、よい夜を」
「貴方も、よい夜を」
互いのなかへ断片的にしか残らない、地続きにならない記憶をそれぞれの土に埋める。爪の奥に砂粒の残る指を振りあって別れる体験は些か奇妙なもので、イクリマはシティのなかへ適当に足を進めたのちにそっと息を吐く。その不可思議な体験は、けれど、決して不快感を催すものではなかった。
イクリマと少女の、互いに事情を知ることのない利害の一致。それはまさしく、砂漠に滲む甘露の如き幸運だ。恐らく彼自身も気づかぬところでイクリマを助けるだろう幸運を丁寧に握り締めたのち、彼は周囲をぐるりと見渡した。
「……ううん」
よいことはひとつ、けれど困りごともひとつ。
相変わらずイクリマはここがどこだかわからなくて、拠点への帰路が見つけられなかった。