目の前へ広がる光景に、息を呑む。美しき夜明け、生きとし生けるすべてのものに注がれるひかり。陽光によって煌めく水平線が網膜を焼く、その一閃に心臓が軋むほどの歓喜を覚える。滅んでなお鮮烈な王の威光を思って詰まらせていた息を細く吐けば、不意に右手が掬い取られた。
「少しは気分転換になった?」
「……ああ。ありがとう、セトス」
イクリマの顔を覗き込んだセトスに微笑と言葉で以て深く感謝を伝えれば、よかった、と笑みを返される。彼に余分な気を遣わせてしまったことへの罪悪感は心中の深くに横たわっているけれど、それでも、この光景に救われたことには間違いなかった。
肥沃な大地に坐した雨林は豊かな木々がたっぷりとした葉を繁らせながら天高くを仰いでおり、四方のどこを見渡しても開けた土地が見当たらない。砂海の生みだす地平線を見渡すように暮らしていたイクリマにとって、雨林の豊かさは僅かながら閉塞感を覚えるものであった。それに加えてスメールシティは聖樹に添うかたちで成り立っているため、教令院までのぼらない限り、斜面のうえから常になにかしらの建物に見下ろされているのだ。
肩に圧し掛かっていた圧迫感をくちにしたことはない。けれどセトスから不意に「ちょっと遠出しない?」と手を引かれたということは、彼はイクリマの心中を汲みとったのだろう。
「海を見たのは、ずいぶん久しぶりだ。……ああでも、これは、海ではないのだっけ」
「厳密には湖なんだよね。でもこれだけ広いと、海って言いたくなるのもわかるなぁ」
「ふふ、確かに」
セトスに気を回させるたび、申し訳のなさが体内に募る。自分の役不足ぶりを実感しては、溜息とともに肩を落としてしまう。だがあまりイクリマが気落ちしていては、それこそセトスからの厚意が無駄になる。そのためイクリマは苦い思いに一旦蓋をして、ひかる水平線をじっと眺めた。
先日の昼過ぎにシティを発ち、夕方に到着したバイダ港で一泊した。そして朝日が昇る前に、港から少し外れた水辺へ足を伸ばしたのだ。恐らくは、イクリマへこの光景を見せるために。
太陽のひかりはいつだって喜ばしい、そこにはかつて砂漠に坐していた王の欠片が残っている。首を垂れる代わりに目を伏せて、両手を組む代わりにセトスの手をそっと握った。セトスもまた、イクリマの手を柔らかく握り返す。岸辺に押し寄せるさざ波が音を立てるだけの静かな空気が、心地好かった。
「……海の向こうは、外の国なのだっけ」
「うん、そうだよ。北東側……あっちが璃月で、北西はフォンテーヌ。バイダ港と行き来するのはフォンテーヌが多いけど、璃月から着くこともあるんだって。向こうに見える船とか、いまからフォンテーヌに帰るんだろうね」
祈りを捧げ終えてから小さく呟けば、繋いだ手をほどいたセトスが水平線を指し示す。遠く彼方で薄らと煙るように浮かぶ岩肌が、岩神モラクスの国なのだという。その近さに、思わず目を見張る。
沈黙の殿で暮らしていた頃は、他国の存在など御伽噺のように現実から遠く離れたものだった。けれど実際に他国というものは、その輪郭が見て取れるほどの距離にあるらしい。バイダ港にはフォンテーヌからきたのだという技術者がその荷物を片手に港を散策していたし、シティでも他国の者が気兼ねなく交流を果たしている。行き交うひとびとを眺めてなお現実味のなかった事実を、岩肌の輪郭に突きつけられる。それがイクリマには、少し恐ろしかった。
「他の国にはどんなものがあるのかなぁ。少しは聞いたことあるけど、やっぱり自分の目で見てみたいよなあ」
けれどセトスは澄んだ声で未知の世界への好奇を語り、その瞳を爛々と輝かせる。ブーツを脱いで岸辺に踏みだし、踝までをさざ波に濡らしながら、一歩ぶんだけ外つ国へ身を寄せた。
水平線を照らすひかりの下で、己の影が浮かびあがる。古く閉鎖的な思想、排他的な意識。イクリマは、湖に爪先すら浸すことが出来ずにいる。
「イクリマもそう思うだろ?」
「……ああ、そうだな」
自らの孕む思想がいかに時代錯誤なものであるかは、理解している。シャジャールはエルマイト旅団の出身でありながらも雨林と融和し、この地で港務管理官の地位に腰を下ろしていた。そうして環境に適応し、外部と接触し、世界を広げてゆく。人間とはきっと、そうあるべき生き物だ。
自分だけが、そうなれずにいる。躊躇うことなく足を濡らして湖の向こうへ思いを馳せたセトスを見送るばかりで、足の裏は乾いたまま。押し寄せるさざ波で柔らかくなった土へ踏み込もうともせず、彼の足跡を追いかけられずにいる。
「外の国はきっと、得難いものに溢れているのだろうね」
だからせめて、水しぶきを浴びないように努めながら煌めくセトスの瞳に微笑んで頷く。古い思想についた錆が水に溶けてしまっては、彼の柔らかな足の裏を汚してしまうから。
( 朝の砂浜 – 足跡が続く / 澄んだ声 / 躊躇いもなく )