もう神様はいないから:後 - 1/4

教令院での用事を済ませたセトスが踵を返そうとしたところで、見慣れた人影が視界に映る。認識はほぼ同時だったから、互いに驚くこともない。セトスが「やあ」と気さくに手を振れば、相手は微かな首肯を返答とする。いかにも彼らしい振舞いに、セトスは自然とその眦を緩ませた。大マハマトラを包む空気は相も変わらず硬質的だが、その首肯に込められた親愛を彼はよく理解している。
「また「お使い」でもしていたのか?」
「うーん、ちょっと違うけど……まぁ近いのかな」
セトスはスメールシティのどこにでも現れる、誰の頼みも聞き入れてシティの上から下から駆け回っているからだ。趣味と実益を兼ねた使い走りの甲斐もあって、いまやセトスがシティのどこに姿を見せようと驚く者は存在しない。今回も変わらぬ日々の軽快さか、それともささやかな非日常への警戒か。何気なく尋ねた友人にセトスが思わず首を捻ったから、セノもまた僅かに眉間へ皺を寄せた。
「イクリマを送ってたんだ。彼、未だにシティで迷うからさ」
「……イクリマが、個人的な用事で教令院を訪れたのか?」
セトスが教令院まで足を運んだのは、確かに「お使い」の一種に違いない。けれどそれはシティの住人からの依頼ではなくセトスとともに雨林へ訪れている同胞からの珍しい頼みごとであったから、セノの言葉に含まれる日常とするのも難しい。その逡巡もそのまま伝えれば納得したようだったが、セノの瞳に浮かぶ困惑は深くなる一方だった。
だがそれも当然だろう、イクリマは明快なまでに砂漠の民だ。セトスの言葉がなければ雨林へ足を運ぶこともなかっただろうし、教令院への懐疑心は未だに深い。その彼がセトスの付き添い以外で教令院へ訪れる理由など考えつきもしなかったから、セトスもイクリマから頼まれたときにはぎょっと驚いたものである。
「知恵の殿堂の本を読みたいんだってさ。ここは教令院に籍がないと使えないから、草神様に融通を利かせてもらってね。この間やっと研究生の立場がもらえたから、それで連れてきたんだ」
ひとの顔も、雨林の道行きもなかなか覚えられないイクリマは、シティへ滞在している間もセトスのように他者と交流を図ることが難しい。視察の命を果たすことが出来ない状況を気に病んでいるようでもあったし、たっぷりと余ってしまった時間の使い方がわからず手持無沙汰になってもいたのだろう。そうなれば本の虫であるイクリマが雨林の書物に興味を示すのは、ごく自然な発想の着地点でもあった。
「成る程、そういうことだったのか。……だが、いいのか?」
「僕としてはあんまり。でも止められないよ、止める理由がないからね」
砂漠の文明が雨林にはどのように伝わっているのかがわかれば、少しはお役目も果たせるだろう? そう告げたイクリマは妙案を思いついたといわんばかりに喜んでいたから、彼を止めることも出来なかった。そもそも、セトスには彼の行動を制限する理由もない。イクリマの行動は『沈黙の殿』の果たす務めにおいて、正しいものだからだ。
そしてまた、クラクサナリデビもイクリマの要望を断らなかった。『沈黙の殿』がセノを始めとする一部の人間に情報を開示している事実があるからだろう、教令院と『沈黙の殿』の対等な関係構築の一環として彼女はイクリマへの情報開示を受け入れたのだ。その決断が孕む意味も、当然ながら承知のうえで。
それでも、本当は彼を止めたかった。セノの言葉に溜息を吐く。彼の浮かべる表情もまた、未だ神妙なままだった。
「確かイクリマは、お前たちが持つ書物の大半を記憶しているんだったな」
「正確には七割弱ってところ。あと十年も経たないうちに、全部記録すると思う」
声は自然と潜められ、交わす音は吐息程度のものになる。苦い息でそう告げれば、セノが言葉を詰まらせた。それも当然のことだ、沈黙の殿に保存されている文献の量はスメールにおいて知恵の殿堂に次ぐだろうから。
『沈黙の殿』は、砂漠に遺された文明を保護し管理する務めを担っている。だが砂漠は常に紛争の只中にあり、その過程で失われた知識も少なくない。その喪失から、祖先は学びを得た。沈黙の殿では戦禍に呑まれる文明を守るため、ある役割を担う者たちが現れたのだ。当代においては、その最たる存在がイクリマであった。
「沈黙の殿が襲撃され、たとえ書物のすべてを焼き払うことになったとしても、そのすべてを正確に記憶している者がいる限りは復元することが出来る。……理には適っている、人間の持つ記憶容量を度外視すればな」
すべての資料を一言一句違わずに記録し、その記録を保持し、保持した記録を出力することの出来る、生きた記録機能。彼は『沈黙の殿』という組織において、その機能の一端を担っている。
だがセノが告げた通り、人間が記憶することの出来る量には限界がある。そのため現在の沈黙の殿においては、記憶力に優れた人間が複数で文献の記録を分担していた。
しかし、イクリマの記憶量は常人のそれを遥かに上回っている。その精緻な記録は一度として歪んだことがなく、だから彼はセトスとともに草神との協議に参加しているのだ。そこで語られた言葉を、すべて記録するために。
「あいつは逆に、本を読んでも記憶しないようには出来ないだろう」
「うん、恐らくね。だから知恵の殿堂で本を読めば、彼はそれを記録する」
生きた記録機能、人間型の古代図書館。イクリマはそういう存在だった、だから彼は砂漠の外へ出ることがなかったのである。彼の第一義は文明の記録にあったから、その他の行為はほとんど除外されていたといってもいい。
だがたとえ膨大な記憶容量を持っていたとしても、人間である限りそれは有限だ。ならば有限な容量のなかで、どのように使命を全うするのか。――単純な話だ、不要な機能を順に削ってゆくのである。
「……しばらく、気にかけてやる必要がありそうだな」
「もちろん、そのつもりにしてるさ」
『沈黙の殿』において記録機能を担う者は、最終的に人間性を喪失する。ひとらしい振舞いや人格、個人的な感情や思い出に割いていた容量をすべて記録に割いてゆくのだ。
人道的配慮と危険分散の観点から記録者を増やされたことで、少なくともセトスはいまのところ人格喪失に陥った記録者を見たことはない。だがイクリマは、その危険性を多分に孕んでいる。彼に常人の尺度が当て嵌まらないことは、いびつな記憶構造が改めて証明していた。イクリマは決して、他人の顔が覚えられないのではない。その記録機能を維持させるため、不必要な情報を記憶しないよう無意識下で情報を取捨選択していたのだ。
「根本的な解決方法はないのか」
「砂漠の外に彼の記録を出力させてそこを保護するかたちを取りたい、とはずっと考えてた。でも具体的には、まだなにも」
「それもそう、か。なにもかも、まだ始まったばかりなんだから」
「それになにより、彼の説得がね」
彼の限界を測ることが出来ない、すなわち彼の喪失がいつ訪れるのかがわからない。自身の人間性を危険に晒す必要はないのだと、セトスはいままで幾度となくイクリマを説得した。けれどこれに関して彼は唯一、セトスの言葉に頷かなかった。
彼はどこまでも砂漠の民で、在りし日の烈日を守ることだけを使命として生きている。だからこそ、使命に殉ずることへの抵抗感がまるでない。それどころか、太陽に心身を捧げることは砂漠の民の在るべき姿であるとさえ認識しているのだ。
そのうえでイクリマは、きょとんと瞳を瞬かせながらこう告げた。「でもおれ、まだ普通に覚えられるよ」。その言葉に一切の歪みはなく、また彼個人の記憶が揺らいだこともない。告げられた言葉は虚勢でなく事実の主張であると判断されてしまえば、棄却されるのはセトスの言い分のほうだった。
「……意外だな。お前のほうが、よほど弁が立つだろう」
「イクリマは頑固なんだ。砂漠の外に砂漠の文明を保存するなんて、彼は絶対受け入れないよ」
セトスの苦い声にセノはこぼした言葉通り、僅かに驚いたような表情を瞳のふちに滲ませる。けれどイクリマは記録の制止すら受け入れなかったほどに自身の使命へ忠実で、頑迷固陋な性質を強く持っている。いまのままではたとえセトスがその立場で以て命じたところで、彼はその命に従わないだろう。なにせイクリマにとっては自身がすべてを記録すれば事なきを得る話であり、恐らく彼には、それが可能なのだから。
「だからそれに関しては長期戦のつもりだったし、それもあってイクリマをシティに連れてきたんだ。雨林への苦手意識が少しでも緩和出来れば、って思ってね」
まぁ、まさかこんなことになるとは思ってもみなかったけど。外れた目論見は今頃分厚い扉の向こうで、嬉々として知識の吸収に勤しんでいることだろう。
自身の意図を込めた行動を取るときには、それが叶わない可能性も考慮に入れて次の手をあらかじめ用意しておくべきだ。祖父からもそう教わっていたから常に複数の可能性を想定してはいたものの、今回ばかりはセトスの予想が大きく裏切られていた。イクリマの記憶の取捨選択に関しては砂漠の外に出ることで初めて明らかになったのだから、想定しようのない事柄ではあったのだが。
「それでも、諦めるつもりはないんだろう」
「うん、もちろん。だからセノ、イクリマの様子がおかしいようだったらすぐ僕に教えて」
だからといって、想定外の現実への対処を放棄するつもりもない。セトスの意思などわかりきったセノの言葉は、彼に不可思議な安堵を与えていた。客観視した現実を改めて咀嚼し、深く頷くセノへ感謝を告げて彼と別れる。セトスには用事があったし、セノにも大マハマトラの務めがある。
本業のための情報収集に向かいながら、動かす足と同じ速度で思考をめぐらせる。記録の件も含め、草神と協議するべき課題は多い。私欲に駆られて一部へ過剰な肩入れをしないように、けれどすべての解決は速やかにするために。打つべき手を思考する。