止まっていた風が僅かに揺らめいたから、ひとの出入りに意識が触れる。灯りのしたで顔をあげたイクリマは見慣れた姿を見止めると、瞳のふちを緩ませた。
「おかえり、セトス」
「ただいま、イクリマ。まだ本読んでたの?」
「読みごたえがあったものだから。そういうセトスは、また外に行ってきたのか」
石室のような室内は日が暮れれば薄暗くなるけれど、ここには灯るひかりがあるから、手元の文字を追いかけることに苦労はしない。だがセトスが眉をひそめたのは夜更けまで読書に打ち込んでいるからではなく、イクリマが朝からずっと本を読み耽っていたからだろう。彼はよく、読書に夢中になるイクリマを外へと連れだしたがっていた。
しかしイクリマがその誘いに乗ったことは数えきれるほどしかなく、今日もセトスは単身で砂漠に出向いていたらしい。傍に立つセトスの長い髪に指を差し込めば、小さな砂粒が幾らか落ちた。
「うわ、落としきれてなかった?」
「そりゃあこれだけ長いもの。朝になったらオアシスの水を頂いておいで」
沐浴を済ませてはいるのだろうが、たっぷりと豊かな髪の隙間まで入り込んでしまった砂をすべて落とすには否応無しに手間がかかる。イクリマは本に栞を挟んで閉じると、抽斗から櫛を取りだした。
「おいで、セトス」
「はあい」
セトスを絨毯のうえに座らせて、長い髪の一房を掬いあげる。ほどかれた髪に櫛を通し、居残った砂を落としながら柔らかな髪を整えてゆく。
髪先の一片すら軋まないようゆっくりと、長い髪を梳る。指の間からふわりと髪が落ちるたび、なんとも言葉にし難い淡さの喜びが胸のなかで波打った。
「今日は商人たちの護衛をしてきたんだ、短い距離だったけどね。面白い話も色々聞いたよ、これから璃月へ向かうんだって」
「岩神モラクスの国か。とても豊かな国なのだっけ」
「そうらしいよ。話を聞いている限り、国の統治体制がいいみたいだ」
「ふうん。やはり岩神の手腕かな」
「それだけでもなさそうだったけど。現地のひとの話も聞いてみたいな、確かシティに留学生がいなかったっけ」
セトスの髪を梳りながら、彼が見聞きした外の世界に相槌を打つ。イクリマにはまるで縁のない、名前しか知らない国。岩神は代替わりをせず国の統治者であり続けているそうだから、それだけがイクリマのなかに残った。かの神は、自分たちの太陽を知っているのだろうか。
「イクリマも一緒に、留学生に話を聞いてみない?」
「おれはいいよ。ここで待ってる」
太陽への憧憬が消えることはない、けれどそれがイクリマを連れだすこともない。外つ国の神が本当に太陽を知っていたのだとしたら、それほど親交が厚かったのであれば、自分たちはその事実を知っているはずなのだから。
だからイクリマは背後を振り返ったセトスの誘いに小さく首を振り、つんとくちを尖らせる少年の頭をそっと撫でた。
「はい、おしまい。さあ、もうおやすみの時間だ」
「イクリマも寝るんだよね」
「はいはい、おれももう寝るよ」
放っておけば寝ずに本を読み進めてしまうからだろう、セトスは自身を寝かしつけようとする手を引いてイクリマも寝台へ乗せんとする。彼の厚意が申し訳なくもくすぐったくて、イクリマは櫛を片づけた手をそのままセトスに引っ張らせた。
隣りあう寝台まで連れ込まれれば、意識が本のなかに戻ることもない。イクリマは自身の寝台に腰を下ろしてブーツを脱いだセトスを見下ろすと、梳いたばかりの髪に触れた。
「おやすみ、セトス。どうか素敵な夢を見ますように」
「うん、ありがと。イクリマもおやすみ」
額にかかる髪を分けて、その付け根にくちびるを落とす。幼い頃から重ねていた祈りはいまや挨拶にも等しく、セトスは穏やかな笑みで以てイクリマのまじないを受け入れる。
そして彼も自身の寝台に乗りあげると、灯りを消した指をそっと組む。我らが太陽へ、我らが賢者へ。今宵も愛し子が安寧に包まれますように、もういない神へ希う。
First appearance .. 2024/06/06@X