シュガー・ポット

 目を覚ます、意識は自然と覚醒する。カーテン越しに差し込む陽光によるものではなく、クロックワーク・マシナリーほどに正確な体内時計によって。囚人時代の圧政下があったために寸分の狂いもない時間測定機構を身につけられたのだから、ギフトとはどこで得られるものかわからない。リオセスリは小さく息吐くと、衣擦れの音を出来る限り殺しながら身を起こした。彼の隣では、セヴリーヌが微かな寝息を立てている。
 体内時計の正確さに関しては、彼女も自分と変わらない。セヴリーヌもまた、そのシステムを頸椎に仕込まれている。リオセスリがその寝顔を見下ろしていれば、彼女の瞼は案の定、覚醒のためささやかに震えた。
「もう少し寝てていい」
 朝を迎えて目を覚まさんとするセヴリーヌの瞼を、手で覆う。夜のヴェールを手のひらの内側にまで引き延ばせば、規則正しい呼吸が微かに震えた。淡く息を詰め、そっと吐く。そして彼女はリオセスリへ身を委ねるようにして、再度の眠りに落ちる。呼気が柔らかくなったのを確認してから、リオセスリはヴェールだけをそこに残して指をほどいた。
 正確な機構をあえて停止させる、その特権はいまのところリオセスリにだけ与えられている。だからこそ、眠るセヴリーヌの無防備な姿が一層に愛おしい。幼子へ黄金の夢を祈るように、その眦へくちづけをひとつ。そして彼女へシーツをかけ直してから、リオセスリだけが寝所をあとにする。
 妻を寝かしつけてまで彼女より早く起床する。リオセスリの、モーニング・ルーティンだ。

 身支度を簡単に整えると、まず紅茶の用意をする。揃いのティーセットは買った頃より模様の色が褪せていて、けれどセヴリーヌはそれを眺めるたび愛おしそうに瞳を眇めるのだ。そのため、ティーセットを新調する予定はもうしばらく先のことになるだろう。経年劣化から滲む、積み重なる年月。それを愛する彼女の瞳の柔らかな煌めきは一際に美しく、美しいひかりをあえて塞ぐ理由などリオセスリのなかには存在していない。
 朝の紅茶は決まっている、甘い香りのストレートティーだ。ティーポットの準備を済ませると砂時計を引っ繰り返し、ポットにティーコジをかけて寝室へ戻る。扉はあえてノック・ノック。寝かしつけておきながら、微睡みの海から呼び戻す。我儘な行動を取りながら、ティーセットをサイドテーブルに乗せた。
「セリン、もう朝だぞ」
「んん、ん……」
 リオセスリが頬を撫でて名を呼べば、セヴリーヌはすぐに目を覚ます。それでもぼんやりとした寝ぼけ眼は、蜂蜜漬けのフルーツを連想させた。甘くまろやかな姿を味わうように、また眦へキスをする。けれど今度は夢の旅路への祈りではなく、帰路の目印としてのくちづけ。ささやかなリップノイズへ応えるように、長い睫毛がふわりと揺れた。
「ん……おはよう、リィリ」
「ああ、おはようセリン」
 ゆったりと身を起こすセヴリーヌの肩を抱き、華奢な身体にショールをかける。寝乱れた髪を整える指を手伝えば、くすくすと囀る鳥のような笑い声。どうした、と問えば、ううん、と幼く首を振られた。
「紅茶の準備も出来たらしい。さあ、目覚めの一杯をどうぞ」
「ふふ、いつもありがとう。美味しく頂きます」
 そうしている間に砂時計のなかでさらさらと白砂が落ちきったから、ティーコジを外したポットから紅茶を注ぐ。甘く豊かな香りに胸を満たしながらティーカップを小さな手に握らせると、細い指がしっかりとそれを受け取った。
「……ああ」
 あたたかな紅茶が薄いくちびるを湿らせて、身体の内側を一番にあたためる。ほう、とこぼされた吐息のぬくもり、それらを享受してうっとりと眇められる瞳。そのすべてを見届けて、リオセスリもはじめて自身のティーカップを手に取った。
「美味しい」
「そいつはよかった」
 思わずこぼれてしまったのだろう、独り言のような声。それを拾って、リオセスリは砂糖の代わりに自身の紅茶のなかへと落とす。彼女を愛したいが故の行為に喜ばれ、愛に充足した姿。それは行為と結果という点では存在して然るべきものであり、それと同時に、ティーカップに注ぐ一杯分の砂糖ほどにリオセスリの内側を満たすものであった。
「ありがとう、リィリ。貴方のお陰で、今日も素敵な一日になるわ」
「そいつはなによりだ、スコーンを用意した甲斐もある」
「まぁ! ねえリィリ、それならもしかして」
「ああ、あんたの好きなクロテッドクリームとマーマレードも向こうで待ってる」
 妻の一番好きな朝食を用意すれば、彼女はそれだけで少女のように瞳をきらめかせるのだ。スコーンとジャムなんて、用意するのも容易いものであるというのに。彼女はダンスパーティーで懸想する王子から求婚でもされたかのように、頬を赤らめてまで喜んでいた。
「まあ! だったらゆっくりしてられないわ、早く朝ごはんの準備をしないと」
「そう急がなくても、スコーンに足が生えて逃げていったりはしないさ。あんたが支度を整えてる間に、あんたに食べてもらう準備をしてくれるだろうよ」
 カップ一杯の紅茶を飲み終えたところだったこともあるだろう、すぐさま立ちあがろうとしたセヴリーヌに苦笑してルームシューズを彼女の足元まで呼び寄せる。肩から落ちてしまったショールをかけ直し、そのふちをセヴリーヌに握らせた。その代わり、ティーカップはリオセスリの手のひらのなか。本日最初の役目を終えたティーセットが、サイドテーブルに行儀よく座り込む。
「それじゃあ、今日のお昼ごはんは目いっぱい腕を揮わないと。私もリィリの好きなごはんを用意するわ」
「あんたが作ってくれるなら、それだけで充分なんだがな」
「そんなことを言ってたら、ニンジンのグラッセばっかりが出てきてしまうわよ?」
 損なわれることのない無垢な表情、それが自分にだけは開かれていることが喜ばしい。意地悪く笑う稚さに苦笑すると、ふふ、とセヴリーヌが軽やかに微笑んだ。ティーセットの乗ったトレイを片手にリオセスリが立ちあがれば、空いた片腕に身を寄せられる。
 セヴリーヌの腰を抱き寄せて、狭い室内でわざわざ身を寄せあって歩く。寝室のドアを開く白い指、軽く抱き寄せればこぼされる笑み。それはリオセスリにとって、存在して然るべき喜びだった。