たとえ真珠が白くなくても - 1/4

 世界がのすべてが寝静まる夜、デスクに広がっていた書類をまとめて息を吐く。夫の淹れてくれた紅茶もすっかり冷めてしまっていて、ティーカップのふちはひんやり冷たい。それでも滲む茶葉の香りは、セヴリーヌのこころを解きほぐす。二度目の吐息は心地好く。ふ、と肩から力を抜いていれば、書斎の扉が静かに叩かれた。
 はい、と頷くように返事をする。セヴリーヌの仕事のほとんどはリオセスリの目を通っているため、彼に立ち入られたところで困るものはひとつもない。けれどリオセスリはセヴリーヌが書斎で仕事をしているとき、律儀なまでにノックをする。それは、彼が持つ誠実さの表れだ。そしてセヴリーヌはリオセスリの誠実さを愛していたから、困りはしなくとも、そのノックの音を愛していた。
「仕事熱心なのはあんたの美点だが、もういい時間だ。そろそろあんたがベッドにいてくれないと、シーツのなかが冷たくて困る」
「まぁ、それは大変。貴方が風邪を引いてしまったら、水龍様も心配で泣いてしまうわ」
 時間を忘れて仕事へ打ち込んでいるセヴリーヌを慮っての音であれば、尚更に。書斎のデスクにまで足を運んだリオセスリの言葉に頷いて、ひとつにまとめた書類を玉紐つきの封筒へとまとめ入れる。リオセスリは「そいつはどうだろうな」と苦笑していたが、幼い頃に寝物語で聞いた水龍はこころ優しい存在だ。きっとそうよ、と答えると、リオセスリは笑う代わりにセヴリーヌの頬を撫でた。
「……そういえばセリン、こいつは?」
 片手はセヴリーヌを慈しみながら、片手は空になったティーセットを片づけながら。空いた瞳がデスクの片隅に向けられて、セヴリーヌはその眦を緩ませる。フォンテーヌでは少しばかり珍しい色彩は、質実とした書斎にささやかな華やぎを与えていた。
「この間、視察でモンドへ行ってきたでしょう? そのとき偶然、教会で結婚式をされていてね。ご厚意で見学させてもらって、花束を分けて頂いたの」
 大教会を擁するモンドは貧しい者たちへの炊きだしや支援政策が充実しているため、セヴリーヌの事業においてもモデルケースとする箇所が少なくない。彼女の計画する新たな支援活動に関しては特にモンドを参考としているため、手紙を交わしあう教会のシスターとは親交が厚かった。
 その際にシスターから現場を実際に見てみないかと提案され、モンドまで足を運んだのが先週のこと。幸いなことに花束はまだ瑞々しさを保っており、透き通るような香りはいまも異国の美しい景色をセヴリーヌたちへ伝えていた。
「成る程。モンドの大聖堂は立派だと聞いてるからな、ずいぶん華やかだったんじゃないか?」
「ええ、とっても。それにみんな幸せそうで、本当に素敵だったわ」
 晴れわたったモンドの空は高く、風と花の香りに満ちていた。幸福の欠片を慈しむように瞳を眇めてセシリアの花を眺めていれば、セヴリーヌの頬を撫でていたリオセスリの手が僅かに下る。肩を抱き寄せられ、セヴリーヌは当たり前にリオセスリへ身を寄せた。
「……俺たちも、挙げるか?」
 そうして囁かれた言葉に、思わず目を丸くさせる。ふたりが添い遂げてから、もうそれなりの年月を重ねているのだ。自分たちの挙式など、想像もしていなかった。
「ありがとう、リィリ。でも気を遣わなくても大丈夫よ、私はいま、とても幸せだもの」
 リオセスリはその両手を血に染めた時点で正しく天涯孤独となり、セヴリーヌもまた喉笛に刻まれた罪の烙印をきっかけに家族を失った。
 秘された婚姻を披露する相手もいない、それであれば挙式をする必要もない。それは夫婦となる前にふたりで話しあった結論であり、いまもセヴリーヌはその選択を正しいものだと思っている。だからリオセスリを見あげて微笑むのだが、彼は眉間へ皺を寄せたまま。不満がわかりやすく浮かぶ様子はどこか稚く、笑みはつい深くなった。
「だが、エイビスくんたちの結婚式もあんたは喜んでいただろう」
「ええ、あんなに嬉しいことはないもの。ふたりとも、とっても幸せそうだった」
「だったら俺も、あんたに同じものを贈りたい。そいつは恋する男の、当然の願望だと思わないか?」
 そうして駄々を捏ねる子どものような幼い表情で、リオセスリは言葉を重ねる。我儘の体裁でセヴリーヌの手に幸福を握らせるから、ああ、息が詰まりそうになる。告げるべき言葉を見失っていると、リオセスリが書斎の床へ膝をついた。ランプのひかりを浴びても溶けることのない薄氷色の瞳が、セヴリーヌに柔らかく向けられる。
「彼女の花嫁姿は見事なものだった。それに引き換え、俺はどうだ。あんたを花嫁にしてやれるのは俺だけなのに、その権利を握り潰してる。それはあまりに勿体無いんじゃないかって、ようやく気がついたんだ」
 俺はあんたを、俺の手で、俺の花嫁にしてやりたい。
 その言葉を、柔らかくあたたかな瞳を、希うように握り締められる手指を、どうして断ることが出来るだろう。彼に愛を懇願するべきは、自分のほうであるというのに。
「……ええ。貴方が、そう言ってくれるなら」
 だからセヴリーヌも、リオセスリの指を握り締める。つながる手を持ちあげて、祈りを捧げるように目を閉じる。やがてその身が抱き締められ、彼の身体を抱き締め返す。ありがとう、と呟かれたから、セヴリーヌは首を振った。そう告げるべきは自分のほうで、だからこそ同じ言葉を繰り返す。