罪人のためのガゼボ - 1/2

 紡ぐ日々の色合いは変わることがなく、セヴリーヌがフォンテーヌ廷を出歩くことも変わらない。仕事が彼女を待っていることも、それをひとつずつ済ませてゆくことも。その日も普段と同じようにやるべきことを終えたから、どこかでひと息入れようかと、道行く足取りをゆったりさせてゆく。そうして景色の流れる速度が緩やかになったせいだろうか、セヴリーヌの視界の端に蹲る人影が入り込んだ。
 アパートメントの影、整えられた植木の傍にしゃがみ込んでいる人物が見えたから、思わず爪先の向きを変えてそちらへ駆け寄る。膝を曲げながら「大丈夫ですか?」セヴリーヌがそっと声をかけると、蹲っていた小さな影は、まるでバネ仕掛けの玩具のような勢いで跳ねあがった。
「うっ、うわあ!? ぼ、僕はなにもしてないぞ!!」
 華やかに響くソプラノは驚き焦る感情に震えてなお美しく、思わず聞き惚れてしまいそうなほど。その透き通った声と、陽光を弾いてきらめく泉の粒が縒り集められたかのような髪。シンプルなワンピースに身を包んではいたが、彼女を知らないフォンテーヌ人は存在しない。セヴリーヌは思わず目を丸くさせて、少女然とした人物をじっと見つめた。
「フリーナ様……?」
 そこにいたのは、かつての水神にほかならない。囁くようにその名を呟けば、跳ねあがる心臓を宥めるように両手で胸を抑えていたフリーナがほんの少しだけ顎を反らした。色彩の異なる瞳が、ほんのわずかに冷たく輝く。それは諦念にも似ていたし、痛みを堪えているようでもあった。
「その敬称はいらない。僕はもう水神でもなければ公職に就いてもいない、一般市民に過ぎないのだから」
 まるで意地を張った少女のような振舞いでありながら、静謐とした声はどこか淡々とさえ響く。けれど神の座から降りても変わらぬ凛然とした振舞いへ気圧されるようにセヴリーヌが頷けば、フリーナは満足したように小さな首肯をひとつだけ返した。
「ええと、ではフリーナさん。どうかされましたか? なにか落とし物でも?」
「あっ……い、いや、それは、別になんでも」
 だが彼女の立場がなんであれ、物陰で蹲っていた事実は変わらない。首を捻りながら尋ねれば、フリーナは狼狽えながらせわしなく両手を振って身の潔白を証明しようとする。けれど後ずさろうとした身体が不自然に動いたものだから、セヴリーヌの視線は自然とそちらへ惹きつけられた。
「あら、お花が……」
「ぼ、僕じゃない! ただ、二階から飛び降りた猫が踏んづけてしまったから」
 そこにあったのは、根本からぽっきりと折れ曲がってしまったマルコット草だった。周囲の土には動物の足跡がくっきりと残っていたから、フリーナの言葉を疑う理由もない。「ええ、そうみたいですね」セヴリーヌはフリーナの背中へ隠れる花に、ほんの少しの苦笑をこぼした。こういうちょっとした事故は、往々にして起こるものだ。
「でも大丈夫ですよ、植物は強いですから。支えがあれば、自分で元気になれるんです」
「そ、そうなの?」
「ええ。ちょっと待っててくださいね」
 セヴリーヌは周囲を見わたし、植木の足元から適度な長さの小枝を拾いあげる。そして首元を彩るリボンをほどくとマルコット草の傍で膝をつき、折れた花へ顔を寄せるように背中を丸めた。
「ちょっ、キミ! それじゃ、スカートが……」
「スカート? ああ、大丈夫ですよ。泥土なんて、洗えばすぐに落ちますから」
 小枝を立てるため土を掘っていたところにフリーナの慌てた声がかけられて、踏みつけていた服の汚れに初めてセヴリーヌの意識が落ちる。けれど多少の土汚れなど、元清掃員からしてみれば大した汚れのうちにも入らない。おろおろとするフリーナを安心させるために微笑を彼女へ向けてから、セヴリーヌは作業へ戻るべく手元にまた視線を落とした。
 立てた小枝が自立することを確認すると、根本から折れたマルコット草をそっと持ちあげる。小枝の添え木にマルコット草を寄せてリボンでそれらを留めようとするのだが、さらさらと上質な布は片手で容易くまとめられてくれなかった。一度リボンを裂くべきか悩んでいれば、白魚の指がセヴリーヌの手からリボンを奪い取る。彼女がきょとんとしているうちに、セヴリーヌの手で寄せられていた添え木と植物が赤いリボンで結ばれた。
「……よかった、んですか」
「なにがだい。リボンを結ぶくらい、僕にだって出来るさ」
「いえ、その、フリーナさんのスカートが……」
 セヴリーヌと同じところまで視線を下げたフリーナも、すなわち自身のワンピースの裾を土のうえに広げている。波打つドレープの美しさに目を奪われるよりも柔らかな布地についた泥土が気がかりで、かけられたばかりの言葉を繰り返す。するとフリーナは目を丸くさせたあと、いかにも彼女らしい笑顔でそのかんばせを彩った。
「泥土なんて、洗えばすぐに落ちるんだろう?」
 無邪気なカノンに、セヴリーヌも思わず笑い声をこぼす。「フリーナさんのおっしゃる通り」「そう、キミが言った通りにね」そうして土のうえで笑いあっていたのも束の間のことで、フリーナはやがてその表情を曇らせる。眉根をぎゅっと寄せてしまって、浮かぶのは絵に描いたような困り顔だった。
「……でも、その、い、一応聞いておくけど。洗うって、普通に水で洗ったらいいんだよね?」
 彼女はつい先日まで水神として公職に就いていた人物なのだ、服に跳ねた泥の落とし方なんて知らない可能性のほうが高い。体裁を繕いながらも洗濯方法を確認してきたのだから、事実はそこにあるのだろう。
 セヴリーヌが最初に彼女を「フリーナ様」と呼んだから、彼女は矜持のヴェールを羽織らざるを得なくなってしまった。それでも知らないことを尋ねる勤勉な無垢さを美しい指でしっかりと握り込む、その姿に胸が優しく締めつけられる。なんて素敵なひとだろう、と。こころからそう感じ、瞳のふちは自然と柔らかくほころんでいく。
「それなら、一緒にお洗濯しちゃいましょう。すぐに着替えて、服と一緒に戻ってきますから」
「い、いいのかい?」
「ええ。ですからフリーナさん、少しだけ待っていてくださいますか?」
 微笑とともに提案すれば、フリーナは安心したようにほっと息を吐く。セヴリーヌの言葉に頷きかけた彼女は、けれどもその途中ではっと目を瞬かせると、険しい表情をわざとらしく作ってみせた。
「けど僕は、名前も知らない相手を待つ趣味はないよ」
 それは、セヴリーヌのことを不特定多数の群衆と見做さない証明だ。かつて歌劇場に呼び立てられたときの古傷が僅かに軋みながら、鈍く疼く痛みを覆っていく。数多もの審判を観劇し続けた水神のなかに残らなかった演目は、幕の外でふわりと笑う。
「ふふ、ごめんなさい。申し遅れました、私はセヴリーヌと言います」
 そうしてセヴリーヌは、フリーナというひとりの女性の友となった。