ケーキ・ドームの内側から

 ヌヴィレットとの打合せを終え、彼の執務室をあとにする。叶うならば会議のあとには紅茶の一杯でも楽しみたいところではあったが、本日も多忙な審判官殿は午後にエピクレシス歌劇場で行われる審判のため間もなくパレ・メルモニアを発たなければならないらしい。せめてもの労いとしてシグウィンからの言伝を伝えれば厳格な表情が微かながら和らいだため、リオセスリからの手土産は多少なりと彼のこころを慰めたようだった。
「セドナさん。書類の郵送手続きを頼みたいんだが」
「先ほどの打合せに関するものですね。わかりました、こちらで確認のうえメロピデ要塞まで郵送するよう手配しておきます」
 続いてパレ・メルモニアの受付を担当するメリュジーヌへ書類を差しだせば、彼女は稚い笑顔をリオセスリに返しながらもその手元ではてきぱきと次の手続きを進めている。すまないな、と言葉をかけると、規則ですからね、と微笑を返された。
 共律庭ないし執律庭に属する公的書類は、所定の発送方法による郵送手続き以外での移送が原則的に禁じられている。そのためヌヴィレットとリオセスリの間ですり合わせを終えた新型クロックワーク・マシナリーの要件定義書は、リオセスリ自身の手でメロピデ要塞へ持ち帰ることが出来ないのだ。些か面倒な話ではあるが、郷に入っては郷に従え。フォンテーヌ廷の規則に噛みつくつもりもなかったから、リオセスリは生産エリアで日々行われている流れ作業のような規則に己の書類を預けていた。
 それに、今日に限ってはそちらのほうがリオセスリにとっても都合がいい。郵送のため必要な書類にサインを済ませてそれをセドナに差しだすと、彼女の大きな瞳がぱちんと瞬いた。
「公爵、なんだか嬉しそうですね。なにかいいことでもありましたか?」
「……そうだな。なんの事件も起こらなければ、それが一番いいことだ」
「ふふ、それは確かに」
 メリュジーヌの特異な視覚は、生物の変化の機微に敏い。加えてパレ・メルモニアの受付を務める彼女は他者との交流の機会も多いため、その変化がどういった感情表現であるのかも理解しているのだろう。セドナの言葉にリオセスリは僅かな微笑をくちもとに浮かべ、ころころ笑うメリュジーヌを穏やかに見下ろす。
「はい、書類も確かに確認しました。こちらは責任を持ってお届け致します」
「ああ、よろしく頼む」
「このあとは、すぐメロピデ要塞へ帰られますか? 書類の到着には、恐らく三日ほどかかりますが」
「そう急がなくても問題ない。今日と明日は、水の上でアフタヌーンティーを楽しむ予定でね」
 セドナは規則の中身しかくちにしない共律官よりよほど丁寧にリオセスリの内情を慮り、その配慮に瞳を眇めながら首を振る。リオセスリの言葉にセドナはほっと息を吐くと、それでは予定通り三日後にはお届けします、と頭を下げた。
「それでは公爵、よいアフタヌーンティーを!」
「ありがとう。セドナさんも、いい一日を」
 書類はしっかり腕に抱えながらも、一礼ののち振られた手の動きには無邪気さが宿る。メリュジーヌの和やかな姿にリオセスリも軽く手を振って答えると廊下を進み、重厚な扉を押し開いて海底暮らしからは縁遠い陽光をその身に浴びた。
 下層へ向かうために昇降機を呼びながら、思考へ沈むとともにくちもとへ手を当てる。さして自覚のなかった変化、無邪気なセドナの何気ない言葉。それとともに思いだすのは、リオセスリが要塞を出る前の出来事だ。水の上へ向かおうとする彼を見送りにきたシグウィンがヌヴィレットへの気遣いと労わりの言葉をリオセスリに預けたあと、彼女はいつになく上機嫌な声で歌うように告げたのである。
「とってもいい表情をしているわ、公爵。今日はたくさん楽しんできてね!」
 感情は極力制御しているつもりでいたが、少なくともメリュジーヌが気付く程度には微細な変化が表面にも表れているらしい。付きあいの長いシグウィンに至っては、その内側にある理由も察するほどに。それでもすべてに言葉を当てはめて事実を現実に顕在化させられることはなかったから、全く以て彼女には頭が上がらない。せめて水の下へ戻る際には、彼女へ手土産のひとつでも用意しておくべきだろう。
 思考がそんなところにまで泳いだから、リオセスリは堪えきれずに苦笑する。成る程確かに、今日の自分は上機嫌に浮かれているらしい。
 罪の烙印が刻まれた日ぶりに水の上で過ごす、誕生日というものに。

 多くにとっては記念され祝われるべきであろう日も、リオセスリにとってはさして特別な意味を持っていなかった。幼い頃は贈りものと祝う声へ無邪気に喜んでいた、けれどそれも青臭い苦みに凌辱されて以降は無味乾燥なものと成り果てて、いまではその日付に対してなんの感慨もない。
 だがいまになって、そこにわざわざ色をつけた。多くにとって特別なものと認識されているからこそ、それは格好の理由になる。普段は生活をともにしていない妻の下へ帰る大義名分として自身の誕生日を掲げれば、彼女はその表情をわかりやすく煌めかせた。
「じゃあ私、リィリのお誕生日をお祝いしていいの?」
 セヴリーヌはそうしたくて堪らなかったのだといわんばかりにはしゃぎ、なにが食べたい、してほしいことはあるか、誕生日にはなにが欲しいか、そういったことを矢継ぎ早に質問してくる始末。放っておけばいますぐにでもディナーの予約を取りかねないほどの浮かれぶりにリオセスリは唖然としたのち、立ちあがりかけた彼女をソファへ引き戻したものである。
 あんたの作ったものが食べたい、あんたと過ごせるならそれがいい、欲しいものは特にないがあんたの選ぶ贈りものがあるならそれが欲しい。うきうきと喜ぶセヴリーヌを宥めながらもそう質問に答えれば、彼女はくすぐったそうに笑って「じゃあ、リィリのお誕生日までにいっぱい料理の練習をしておくわ」と告げた。
 水の上へ出たのは、その日以来。最後に目にした愛する女が自分を祝おうとあれほど張りきっていたのだから、つい期待もしてしまうというものだった。
 誕生日を楽しみにして浮かれるだなんて幼い感情が未だ自分のなかで存在していたことには我ながら驚いたし、その様を思考の一部が俯瞰して見下ろせば滑稽にすら感じられる。だがそれも悪くないと飲み込むことにしたから、シグウィンが祝福を告げるほどには変化が顔へ滲んだのだろう。
 変化はメリュジーヌにしか悟られていないから、彼女にもあまり感づかれないといいのだが。久方ぶりの帰宅を果たし、小さな家の鍵を開けると扉をくぐる。内側から施錠をしたのち、閉じた扉をノック・ノック。互いの立場のため家のなかから帰宅を告げるハウス・ルールには、すぐさま軽快な足音が返事をした。
「リィリ、おかえりなさい!」
「ああ。ただいま、セリン」
 玄関のリオセスリまで駆け寄ったセヴリーヌを抱きとめて頬にくちづけを贈れば、くちびるからの贈りものをリオセスリの目元まで届けようとした彼女の身体がつま先立ちになる。そうして間もなく、抱き締めながら告げられる祝福。「それと、お誕生日おめでとう」声には愛が満ちている、それだけで満足だった。
「いまアフタヌーンティーの準備をしていたところなの。もうちょっとだけ待っていてもらえるかしら」
「それはもちろん、幾らでも。紅茶だったら俺が淹れてもいいしな」
「あら、それは駄目。今日は私が貴方にお茶を用意するんだから」
 引き連れられるようにリビングのソファへ座らされ、手にはリオセスリの愛読書を持たされる。その姿についくちびるをほころばせながら、ソファへと座り直した。
「成る程、今日はいい子で待ってないといけないってわけか」
「つまり、いつも通りの貴方でいて頂戴。リィリはいつでも可愛い子だもの」
 互いの視線の位置が普段と入れ替わったところで、まるで我が子を愛おしむように額へとくちびるが落とされる。どうしてかセヴリーヌにとっては未だリオセスリが「可愛い子」であるらしく、背伸びしたがる少女のような稚さで慈しまれるのだ。
 彼女のその無邪気さが愛しかったから、リオセスリも子ども扱いを甘んじて受け入れているのだけれども。苦笑しながらされるがままに頭を撫でられていたリオセスリは、不意に鼻孔を掠める甘い香りに気がついた。
「……セリン、スコーンでも焼いたのか?」
 焼けた小麦粉と砂糖の香りは、アフタヌーンティーを鮮やかに彩ってくれる。確かに彼女の手料理を望みはしたが、よもやそこまで手製で準備したのだろうか。僅かながら目を丸くさせれば、セヴリーヌがその瞳を小鳥のように瞬かせた。言うか言うまいか、傍目にもわかりやすい逡巡ののちに彼女はくちを開く。少しばかり照れたように、頬を仄かに赤らめながら。
「焼いたのはスコーンじゃなくてケーキよ。お誕生日のお祝いには、ケーキが必要でしょう?」
 そして彼女はなんてこともなく、そんなことを告げるのだ。
「ふたりでたくさんは食べられないから、大きなケーキは作らなかったのだけど。大きいケーキがよかったなら、そうね……明日、クレープを作りましょう。ミルクレープにして、明日はそれをお昼ごはんにしてしまうの」
 多くにとっての当たり前、ごく自然なあるべきかたち。彼女は当然のようにそれをリオセスリへ与えている、もう何年も前からずっと。まるで悪戯を思いついたかのように笑う姿にも悪徳はまるで含まれておらず、その純朴な慈愛を思わず抱き締めた。
「リィリ?」
 ソファに膝をついて崩れかけた体制を整えたセヴリーヌは、不思議そうな声をあげながらもリオセスリを抱き締め返してはその髪を撫でている。彼女は、相も変わらない。変わらずに、ただ、正しい。
「……いや。あんたは俺を喜ばせる天才だと思ってな」
「まぁ。この身に余る栄誉だわ」
「恐縮せずに受け取ってくれ。あんたにしか授与されない勲章だ」
 頭を撫で続けている手指を掬って白い手の甲へくちづければ、くすぐったそうに甘く密やかな笑い声。彼女がソファから降りたから、リオセスリも腕をほどいてセヴリーヌをまた見あげた。
「それでは公爵様、貴方に捧げるためのケーキをご用意しても?」
「喜んで、公爵夫人。本当は俺のほうが、お礼に最高の一杯を献上したいところだが」
「今日は駄目。次に帰ってきたときは、貴方に甘えさせてもらうわ」
 彼女はくすくすと微笑んでから、もう少しだけ待っていてね、とリオセスリを子ども扱いしたのちにその身を翻す。小さな影が甘い香りを連れてキッチンへ戻っていく後ろ姿を見送りながら、リオセスリは深く息を吐きだした。
 無味乾燥なただの一日が、甘い香りに満たされてゆく。そこにあるべき喜びを呼び戻すかのようにして。


First appearance .. 2023/11/23@yumedrop