「それじゃあ行ってくるけど……本当に大丈夫?」
「大丈夫だってば、子どもじゃないんだから。お母さんこそ、気をつけてよね」
夏休みが始まって、三日目のこと。家を空けることになった母を見送ろうと立った玄関では、大きなキャリーケースを引いた母が、それでも扉を開けきらずに私の顔を何度も覗き込んでくる。母親の心配が有難いやら、こうも重なればさすがに少々鬱陶しいやら。いい加減に家を出なければ電車の時間に間に合わなくなるであろう母に代わって玄関を開けると、ようやく外へ向かって一歩を踏みだした。
「なにかあったらいつでも連絡するのよ」
「わかってるって。お母さんも、お父さんとこ着いたらちゃんと連絡してよ」
両手でキャリーを引く母に代わって扉を押さえながら、お互いの声だけで「行ってらっしゃい」「行ってきます」の挨拶を交わす。細い身体がキャリーごとエレベーターに入っていくところまで見送ると、私もようやく玄関を閉めた。閉じ際に見えた空は青くて、冴え冴えとしていて、少し見ただけなのに目の奥をつんと焦がす。
「……夏だなぁ」
肌のべたつく感じだとか、色んな匂いが篭もって混ざりあう空気だとか、首の後ろの薄らした汗だとか。そういうものからも感じていた事実を、網膜でも噛み締める。しみじみと実感したこの夏を、私はひとりで過ごすことになる。
自分しかいないリビングは当然ながらしんとしていて、日が差し込んできらきらしているのに、なんとも言えない物足りなさ。なんとなく、私は自分の部屋で長年苦楽を共にしているテディベアをリビングのソファにまで移動させた。
静かなリビングが少しばかり彩られて、ちょっとだけ満足する。その次に立ち寄ったのはカウンターを挟んでリビングと繋がっているキッチンで、私は自分のなかのそわそわとした感覚をごまかすように調理道具の位置を確認したり、食器棚を開け閉めしたりした。
冷蔵庫のドアも開けて、ひやっとした空気にほっと息を吐きながらなかを物色。調味料や卵に豆腐、お漬物の入った小瓶。未開封の牛乳が二本あったけど、私ひとりで賞味期限までに飲みきれるだろうか。
冷凍庫にみっしりと詰まった冷凍食品やフリージングされたお肉たち、野菜室にはトマトやキュウリ。なかのものを順番に確認してはいくけれど、私の頭のなかが整頓されるわけではない。むしろ情報が雑多に広がってしまったから、ビニール袋に詰まったナスを見下ろしながら溜息をこぼしてしまった。
「どうしよっかなぁ……」
「なにがだい?」
「ごはん。調理実習以外で作ったことないからさ」
母親は家を出る直前まで「やっぱり、なにか作り置きしたほうがいいんじゃない?」なんてことを繰り返し言っていた。それを断ったのは、母親への申し訳なさでもあったし、見栄のような思いもあった。いつまでも親に面倒を見られっぱなしなのは恥ずかしいんじゃないの、なんて自意識で、母親の提案を受け取らなかったのである。
「ああ、お母さんお出かけしてったみたいだもんねぇ」
「うん、お父さんとこ」
「お父さん、一緒に住んではいないのかい?」
「春から単身赴任なんだよね。それで、向こうで体調崩しちゃったんだって」
「そっかぁ。それでお母さんがお父さんとこ行くんだね」
そうでなくとも母は父の単身赴任先まで行って、たぶんひっちゃかめっちゃかになっているのだろう家の片付けをしたり、ご飯を作ったりしなければいけないのだ。それで私のごはんまで作っていたら、母の労力は二倍になってしまう。それを思うと甘えるのも気が引けてしまって、母には「お父さんのことだけ気にしといたらいいから!」と言いきったのであった。
「冷蔵庫にこんだけもの入ってるから、さすがに使わないとなーって思うんだけど」
「なに作ったらいいか、わかんない?」
「……うん」
「なら、おれが一緒に作るよ」
母の厚意を押しきった手前、ファミレスやコンビニで済ませてばっかりにするわけにもいかない。でも私だけでは、なにを作ればいいかも思いつかない。ひとり生活が始まってさっそく弱音をこぼしていた私は、そのときになって、ようやくおかしなことに気がついた。だってこの家のなかには、いまは私しかいないはずなのである。それなのに私は、いったい誰と喋っていたのだろう。
「うわあッ!?」
「わっ、びっくりしたぁ」
おそるおそる顔をあげると私の隣ではいつの間にか、まるで見たこともない男の子が、私と同じように冷蔵庫の前でしゃがみ込みながら野菜室を覗き込んでいる。心臓と脳みそがひっくり返って身体から飛びだしてしまうんじゃないか、ってくらい驚いて、そのまま床にしりもちをついて、勢いあまって壁に後頭部を思いきり打ちつけた。
「ああ、ああ、大丈夫かい? すっごい音だったけど、頭はくらくらしてない?」
冷蔵庫の前で頭を抱えて丸くなっていると、おろおろとした男の子が後頭部をゆっくりと撫でてくれる。幸いにしてぶつけた箇所が痛む以外はなにもなかったから、私は痛みと衝撃が収まるまでその場で蹲っていた。
「……きみ、誰」
驚きすぎて飛びだしかけた涙が喉の下にまで引っ込んでから、私はようやくそう尋ねる。いつ家に上がってきたかもわからない、見るからに不自然な男の子。肌は真っ白で、髪は八重桜みたいな色をしていて、民族衣装のようなものを着ていて。男の子なのに、その子はまるでお姫様のようだった。
「おれ? おれは通りすがりのあやかしだよ」
「は?」
「あっ、でも悪いあやかしじゃないからね。悪いやつなら、今頃ぱくっとしちゃってるよ」
しかもその子は、自分が人間じゃないとまで言ってくるのだ。ああそうですかと納得出来るものがなにひとつないなかでも、男の子は朗らかに笑う。それがあまりに優しいものだったから、私はつい、少しだけ気を緩めてしまった。
「ちょっと外を歩いてたら困ってる声が聞こえて、ついお邪魔しちゃったんさ。おれ、こう見えて料理は割と得意だよ。だから、ごはん作るの手伝わせてよ」
彼はなにからなにまでが不自然な存在だったのに、何故だか妙に、その子がいることを自然と受け入れてしまっている自分がいる。あまりにも異次元の存在過ぎる存在というのはどうやら、一周回って呑みこめるものらしい。私がぽかんとしたまま頷くと、男の子は花がほころぶように可憐に笑った。
「よかった! それじゃあ、これからよろしくねぇ」
こうして私の、ひとりで過ごすはずだった夏が始まった。