目が覚めて、肉体を起こし、支度を整える。ひとの身を得ることで増えた手間は手がかかると同時、快く心地好い。そもそも余分な行為を愉快に感じるこころがなければ、人間と同じ姿かたちでの受肉はしまい。獅子王は稲穂色の髪を飾りのついた結い紐でひとつにまとめると、毛先を肩に流したのち立ちあがった。
鵺を引き連れて寝所を出たあと、縁側を歩いてしばし。邸の庭では受肉した神が自ら耕す畑が広がっており、朝も早くから青々とした苗に水飛沫。陽光を弾くひかりの礫に瞳を眇めていると、不意に獅子王の足を軽く引く感触。視線をおもむろに落とせば、そこでは小虎が獅子王の足にじゃれついていた。
「なんだお前、朝から元気だなぁ」
五虎退の引き連れている虎は猛獣でありながら人懐っこく、獅子王にもよくじゃれついては気を引くように指を甘噛みするのである。獅子王が膝を曲げて両手で虎の腹をくすぐっていると、「あっ、見つけた!」庭からよく広がり響く声。獅子王が瞳を滑らせれば、鯰尾が虎の一匹を両腕でしっかと抱えていた。
「おはようございます、獅子王さん!」
「おう、おはよ。こいつ探してたのか?」
「そうなんです。五虎退と一緒に遊んでたんですけど、こいつらだけ蝶を追いかけ始めちゃって」
朝の清々しい空気がよく似合う少年は快晴を背負って気持ちよく笑うと、獅子王に腹を揉まれて脱力している小虎へ手を差し伸べる。「ほら、帰るぞ」鯰尾の呼びかけに虎の子はしばし顔を背けていたが、目の前でひらひらと揺れる指には動物の本能が刺激されるのだろう。やがて獣は四肢の爪と縁側をかつんとぶつけると、鯰尾に誘われるまま土へと降りた。
「そうだ、獅子王さん。主さん、まだ寝てるみたいだから起こしてあげてもらえませんか?」
「今日も寝坊かよ。ほんっとに寝汚いな、うちの主は」
そして五虎退の下へ戻る手前、くるりと振り返った鯰尾がこともなげにそう笑う。彼の言葉に獅子王が呆れかえると、あはは、と主君の寝坊など気にした様子もない笑顔。事実、この本丸で主君の寝汚さを気に病むものなど誰ひとりとしていないのだが。獅子王の竦めた肩も、そういった体裁に過ぎない。
獅子王は二匹の虎を連れて走る鯰尾の背中を見送ると、やがて踵を返し自身の寝所の奥へと向かう。閉じられた障子扉の前で膝を突くと、そのなかに向かって声を投げた。
「主さん、もう朝だぜ。いい加減起きろって」
声を張って朝を告げるのだが、薄暗い室内では動く影の様子もない。「おーい、聞いてるか?」「起きろってば、みんなあんたがくるの待ってるんだぜ」「そろそろ起きないと、五虎退の虎たちが暴れだしちまうぞ」何度呼んでも梨の礫、それもいまに始まったことではない。獅子王はやがて溜息を吐きだすと、障子に指を引っかける。入るぜ、と断りだけを入れてから横滑りの戸を開けて、灯りのない室内へ膝を差し入れた。
「主さん。もう起きろよ」
寝所の奥では安らかに眠る女性がひとり、我らが本丸の主である。この本丸の主君は強い霊力を持つだけでなく仕事ぶりも真面目で人柄も品行方正と非の打ちどころがないのだが、寝食をともにしていれば人間くささも当然滲む。朝に弱い姿などはその典型であり、彼女はよほどに根気強く声をかけなければ瞼を震わせもしなかった。
獅子王がそうして呼びかけ続けて十分ほど。彼女はようやく目を覚まし、むずむずと布団をめくる。寝乱れた浴衣の襟を整えながらも獅子王を見つめる瞳はぼんやりしていて、目覚めきっていないことなど一目瞭然であった。
「……ししおう」
「ああ。おはよ、主さん」
「ええ、ええ、おはよう……」
なんとか意識を覚醒させようと努めている姿に苦笑して、獅子王は彼女が目覚めきるまでその場で胡坐を掻いて起床を待つ。その間になんの気もなく室内をぐるりと見わたすのも日常茶飯事、机上の書類に薄らとかかる靄へ気付くのも。些か格式ばった封書にも靄がかかっていたから、獅子王は僅かに眉をひそめた。
「……主さん、ああいう書類はちゃんとしまっとけよな」
「うん……? ああ、けれど、大丈夫よ。だって獅子王、勝手になかを覗きはしないでしょう?」
靄がかっているのは、獅子王の目が霞んでいるからではない。そうなるように、術をかけられているからだ。
審神者と付喪神は使役する者とされる者の間柄でこそあるが、本質的には人と神。契約に従い人間へ下っているが、ちからのすべてを用いれば神はその契約を反故にすることも易いのだ。だからこそ、そうならないためにひとは名を秘匿する。神は真名で以て他者へ干渉するため、審神者の存在はそうして付喪神から守られていた。
だが彼女は、行使された術への傲慢ではなく獅子王への信頼で以てたおやかに微笑んでいる。元より牙剥く気はないが、そうされれば牙を研ぐ意思も削られると知っているかのように。「ったく」けれど彼女は、そういった打算で言葉を紡いでいない。その信頼を寄せるほどには、獅子王も彼女に仕えて長かった。
「そうだとしても、万一のことがあるかもしれないだろ? あとでちゃんと片付けておけよ」
「ふふ、はあい」
脱力しながらも釘を刺すことは忘れずに、しっかり頷いた主君の様子に獅子王もよしと頷く。そうこうしている間に彼女も目を覚ましたようだから、獅子王は胡坐をほどいて立ちあがった。幾ら寝所へ立ち入れど、女性の柔肌を無粋に眺める趣味はない。
「それじゃ、支度が済んだら広間に来いよ。みんな待ってるぜ」
「ええ。今朝もありがとう、獅子王」
そうして朝の恒例行事とも化している主君の目覚めを手伝ったのち、身支度を整えた彼女が広間へ現れたことで一同揃って両手をあわせ祈りを捧げる。食前の祝詞をあげたのち畑で採れた幸に舌鼓を打ち、あれが美味しい、これが良いと賑わいのなかで食事を終えた。その華やかさこそ、受肉したが故の喜びのひとつである。
主君は食後の一服まで入れてひと息、食事番は膳を下げて厨へと。獅子王も今日は食事番でなかったため煎茶を啜っていれば、その合間で主君が不意に言葉をこぼした。
「そうだわ。昨晩招集があってね、今日は政府まで出向いてくるわ」
「またか? 最近多いな」
「ええ、なにかと確認されることが多くて」
この本丸の務めは歴史を討たんとする敵影を迎撃することであり、役人の機嫌取りをすることではない。だというのに政府からの覚えも明るいためだろうか、主君はたびたび呼びだされてはなにかと複雑な話を持ち込まれているようであった。
彼女も決してその相手を得手としてはおらず、花のかんばせは曇り空。憂鬱な溜息が緑茶へふうとかかったとき、それを拭うような声が鼓膜を撫でた。
「それならせめて、これを着ていくといい」
鶯丸がその言葉とともに広間へ持ち込んだのは、生成色の薄羽織。柔らかな生地の羽織ものからは甘酸っぱく軽やかな香りが滲んでおり、それに主君の瞳が柔く煌めく。「まあ」と自然に漏れた声も、どこか浮足立っていた。
「いい香りがするわ。鶯丸が?」
「ああ、先日香を焚きしめたところだ」
成る程それは風雅を好む彼らしい。獅子王もその香りに瞳を眇め、いそいそと薄羽織を身にまとう主君のどこか稚い姿を微笑ましく眺めた。
「白梅香か。趣味がいいじゃねえか」
「そうだろう。俺も気に入りの香だ」
梅には鶯、これならば憂鬱な仕事に赴く主君のこころも幾らか慰められるだろう。事実、彼女は先ほどまでよりも穏やかな表情で「ありがとう、鶯丸」と自然な微笑を携えている。その様には獅子王だけでなく鶯丸も安堵したようで、彼も小さく笑んで「ああ」と頷いていた。
「では、ささっと用向きを片付けてくるわね。留守の間はお願い出来るかしら、獅子王」
「ああ、もちろん。こっちのことは気にせず、安心して片付けてこい」
気を持ち直した主君が立ちあがったから、彼女を見送るべく獅子王と鶯丸も邸宅の廊下を伴だって進む。漆の塗られた下駄を履きこなす主君の、命と呼ぶにはあまりにも丁寧な言葉に頷いていれば、それに鶯丸が笑みを僅かばかり深くした。
「ほう、今日は旦那様の差配か」
それは主君の近侍を務める獅子王が彼女に代わって采配を取る際、あまりに堂に入っているという称讃とともにつけられたあだ名である。幾らなんでも主君と自分を並べるのは如何なものかと獅子王は眉をひそめるのだが、如何せんその呼び名を他ならぬ主君がお気に召していた。
「ええ、そうよ。鶯丸は旦那様をよく支えてあげて」
「うん、任せておけ」
「あんたらなあ……」
彼女が獅子王をそう呼ぶのであれば、言葉を突っ返す野暮も出来はしない。呆れる獅子王へ主君と鶯丸はふたり揃って笑ったのち、「それでは行ってまいります」と深く頭を下げる主君へ、獅子王と鶯丸も深い一礼で以て返答した。