あとは野に咲く花となれ - 1/4

 その存在を認識したのは、春を迎えてしばらくが経った頃のことだった。
 幼馴染を付き合わせては日課の如く訓練場で剣を振るい、適当な理由を付けてそこを去っていった軽薄な後姿にフェリクスが溜息を吐いたときのことだ。幼馴染の赤髪が視界の端に映らなくなった矢先、けたたましい音を立てて訓練場の扉が開かれたのである。決して日常的に聞くような音ではないだけにフェリクスと同じように訓練場にいたカスパルは目を見開き、ペトラは咄嗟に訓練用の剣を握る。すわ敵襲かとフェリクスも身構えたところで、騒音を立てて訓練場へ転がり込んできた張本人は剣呑な空気を気にすることもなく閉鎖的な空間を素早く一瞥した。
「おいおい、誰かと思ったらロゼッタじゃねーか。どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「すいません匿ってください。私はここにこなかった、いいですね?」
「はあ?」
「兄様がきます。私はここにはきていない。よろしくお願いします」
 黒鷲学級に所属している少女はカスパルに短く言付けると、先ほどの騒音が嘘のような静けさで扉の死角に滑り込む。訓練用の武具の隙間に身を置いて、ふたつ呼吸の間でその気配が稀薄になった。彼女の姿を視界に入れていてもなおそう感じるのだから、彼女がここにいると認識していない人物はきっとその存在に気付くこともないだろう。状況への理解が追い付くよりも先にその気配遮断術へ感心していると、半開きとなった扉の先から聞こえる強い足音。ペトラが剣を下ろした姿が見えたから、フェリクスも応戦の構えを解いた。
「失礼する! カスパル、ロゼッタはこなかったかね」
「お、おう、フェルディナント! あっいや、あいつはきてねーぜ!」
 そしてまた高らかに扉が押し開かれたから、今日で訓練場の扉の強度はどれほど試されたことだろう。さすがに数秒前ほど乱雑で後先を考えない動作ではなかったが、扉を開いた人物のことを鑑みると随分粗野な動きであった。同じ学級でないフェリクスは彼のことも詳しくはないから、その認識の正誤を確認することは出来なかったが。
「訓練場、わたし、くる、最後、です。ロゼッタ、どうした、ですか?」
「彼女に少し話があってね。すまないが、ロゼッタがここにきたら私が探していたと伝えてくれないか?」
「はい。了解、しました」
 明らかに嘘を吐き慣れておらず挙動不審な様が目立つカスパルへの違和感が浮かぶよりも早く、ペトラがフェルディナントとの会話をそれとなく誘導する。彼女に対する信頼の厚さ故か、フェルディナントはペトラの言葉を疑う様子もなく妹への伝言を依頼していた。そして穏やかな表情でペトラと言葉を交わしていた人物は、次の瞬間には瞳を冷たく光らせる。
「ああ、あとこうも伝えてくれ。くれぐれも私から逃げ回らないように、と」
 それを横目で捉えたフェリクスは、言い知れぬ既視感を覚えずにはいられなかった。あれと同じ類の瞳を、自分はそれなりによく見ている気がする。そう、それこそ軽薄を絵に描いたような幼馴染を捕まえては叱り付ける、もうひとりの幼馴染とかで。
「わかりました」
「それでは、邪魔をした」
「あ、ああ」
 フェルディナントの気迫に対しても少しの動揺すら露わにせず淡々と頷くペトラの胆力は、他学級ながら見事なものだった。敵に感情を読み取らせないのも、戦いにおいて重要な技術のひとつだ。生々しい戦の記憶を持つブリギッドからの留学生は、士官学校の生徒たちのなかでも戦士としての技術と覚悟が既に備わっているらしい。あとで手合わせのひとつでも付き合わせるかと考えながら、身を翻して訓練場を去っていくフェルディナントを横目で見送る。武具の隙間から少女が顔を覗かせたのは、軍靴を履いていればさぞ高らかに鳴っていただろう足音が遠退いてから、しばらくあとのことだった。
「はあ……。ありがとうございます、助かりました」
「いえ。お安い御用、です、でした」
「それにしたって、今度はなにしたんだよ。フェルディナントがあそこまで怒るの、久しぶりじゃねーか」
 まるで野良猫のように軽妙な仕草が印象的な人物は、まるで最初から訓練場にいたかのようにこの空間へ馴染んでいる。大きく肩を撫でおろした少女へ首を捻ったカスパルの言葉から察するに、黒鷲学級ではこの騒ぎもそう珍しいことでないのだろう。入学してから三節も経っていないのだ、他学級の話などよほどの内容でない限りフェリクスの耳には届いてこなかった。それ故に彼が知っていることといえば、いまカスパルとペトラと相対しているロゼッタという少女がフェルディナントの妹であるということぐらいである。
「課題でわかんなかったところがあったから、ヒューベルトさんに教えてもらってたんですよ。それを兄様に知られちゃって」
「まさか、勉強見てもらっただけであんなに怒ったのかよ?」
「時間なかったから、夜にヒューベルトさんの部屋で教えてもらってたんです。そしたらどうも、それが駄目だったみたいで」
「それは……フェルディナント、怒る、当然、です。夜、異性の部屋、訪問する、夜這いか暗殺、疑う、します」
 しかし否応無しに聞こえてくる会話を聞くに、あの少女はどうやら随分と破天荒なようである。ペトラの言葉は些か極端だったが、ロゼッタの行動は他意なく取って良いものではなかったろう。フェルディナントが良くも悪くも貴族らしい人物であるから殊更に、妹の姿は少々常識を踏み外しているようにも見えた。
「それなら早いとこ謝りにいったほうがいいんじゃないか? さっきフェルディナントも言ってただろ、逃げ回るなって」
「嫌ですよ、いま行ったら夜までお説教ですもん。あと一時間くらい経って、若干頭が冷えたかなーってときに行きます」
 そして貴族の娘らしからぬ人物は兄の怒りの温度もよくよく把握しているようで、「だからそれまでお邪魔します」と笑って訓練用の剣を軽く掲げてみせた。どうやら武具の隙間から出てくるときに、そこから持ち出していたらしい。しかし示されるまで剣を携えていることすら感じさせなかったから、彼女は独特の気配の断ち方を会得しているようであった。
「……おい」
 先ほどの気配の消し方と言い、武器を持っていると感じさせない振舞いと言い、彼女は決してただ者ではない。そして、それと同時に思い出す。先月、青獅子・金鹿・黒鷲の三学級による交流戦を行ったときのことだ。金鹿と黒鷲が衝突した際、あのクロードを相手取ったのは他ならぬ彼女であったのだと。その光景を直接目にしたわけではないが、その武功ばかりはフェリクスも聞き及んでいた。
 所詮は混戦の噂話だ、どこまで真実かわかったものではないからと話半分に聞いていた。けれどあの、身を隠さんと武具の隙間へ入る際に物音を少しも立てなかった様子や、フェルディナントの気配が完全に訓練場を離れるまで気配を押し殺し続けた数秒の判断を目の当たりにすると、ただの噂とも一蹴し難い。少なくとも、己の目で真偽を確かめる価値はありそうだった。
「はい? あ、御機嫌よう、フェリクスさん」
「…………」
 それがたとえ、場違いに能天気な挨拶をして無意味に整った一礼を披露してくる人物であったとしても。
「しばらくここにいるなら、一戦付き合え」
「はーい。あ、でも剣はそんなに得意じゃないんで、お手柔らかにお願いしますね」
 ひょこひょこと警戒心の欠けた小動物のような動きでフェリクスに応じているが、本当に戦いに不慣れな人間は数度の素振りで扱う剣の重みと手馴染みを確認しない。「ペトラさん、カスパルさん! 一時間くらいしたら教えてくださーい」上半身を捻ってふたりに向けながらもぶれない重心も、身体を大きく動かしている間にずれない切っ先も、「お手柔らかに」という言葉に応じて良いものではないだろう。
「じゃ、よろしくお願いします!」
「……フン」
 士官学校の敷地内をうろつく犬猫を彷彿とさせる人物からその皮を剥げば、どのような刃が現れるのか。剣を握る指先の血が、ほんの僅かに沸き立った。