マイ・ローズ - 1/4

( Support C / in school )

 夜半過ぎに隣の部屋の扉を数回小突く。なかから声が聞こえるよりも先に「兄様」と呼びかければ「入りなさい」とお許しをもらったから、お邪魔しますと扉を開ける。夜に異性の部屋へ足を運んではいけないと言い付けられていたけれど、彼に限ってはそれも別。きょうだい相手ならば、いったいなにを気にするというのだろう。だからロゼッタは兄フェルディナントが溜息とともにくれた許可を右手に携えて、今日も彼の部屋に入り込んでいた。趣味で収集された武具の並ぶ兄の部屋は、自分の部屋より金属と油の匂いがする。
「遅くにごめんなさい、兄様。でもこれ、よくわかんなくって」
「ああ、昨日貸した本か。どこがわからなかったのだね」
「んー、半分くらいはわかんなかったんですけど」
 フェルディナントに手招かれるまま机に向きあおうと、一脚しかない椅子を借りる。フェルディナントがエーギル領の邸宅から持ち込んでいた本は、ロゼッタにとっては随分と分厚いものだった。アドラステア帝国における租税の基礎的な知識と現状をまとめた書物らしいのだが、小難しい言葉があまりに多いものだから一文を理解可能なように噛み砕くだけでも精いっぱい。そうしてようやく読み解いても、その内容がまた難解。とりあえず全項に目を通してわかる範囲の内容を紙にまとめてみたものの、恐らく肝心の箇所を紐解けていないから理解はなんだかぼんやりしたまま。そうなればもうロゼッタにはお手上げで、こうして兄に泣きついたのである。
 ロゼッタのまとめた紙束に目を通した兄は、まず彼女に瞳を落として軽く笑う。「自ら学ぼうと努力したのだな、素晴らしい」そして一番にロゼッタの行為を褒めてくれるから、へへ、と口元が綻んだ。兄は礼儀作法や貴族としての品格に関しては厳しくくちうるさいけれど、ロゼッタの意思や選択をいつも最初に尊重し称賛してくれるのだ。それがあるから難しい本も、まず出来る限りは自力で読み解こうと思えるのである。
「では、まず認識違いから直していこう。この記述だが、正しくは三十年前の法令を差している」
「三十年前……えっと、えーっと、これですか? でもそれだと辻褄合わなくありません?」
「ああ、そもそもこの文節を読み違えているのだよ。この話は現在の制度ではなく、三十年前に施行された法令のことを示している。そうして読めば、話も繋がるだろう?」
「んー……えーっと、んー……あ、本当だ」
 そしてフェルディナントからお褒めの言葉をもらったあとは、彼の講義の始まりだ。ひとつずつ丁寧に解説してくれるし、ロゼッタの理解速度がフェルディナントの言葉に追い付かないときは彼女が言葉を咀嚼するまで待ってくれる。それでもそもそも、学ぼうとする事柄の全部がロゼッタにとっては難しいことだった。いまもそう、たったひとつの事象を理解するだけで明かりの火が消えそうになってしまうほどの時間をかけている。ふひゅう、と間の抜けた息をこぼしているとフェルディナントも経過した時間の長さに気が付いたのだろう、苦笑とともに開いていた本を閉じた。
「続きは次の休みにするか」
「それでお願いしまあす……」
 次はもう少しわかりやすい資料を用意しておこう、フェルディナントの言葉へ、お願いしますとまた言う代わりに首を垂れる。きっとその資料もなにかの本を探すのではなくフェルディナントが本の概要を手ずからまとめるのだろうから、全く以て彼には頭が上がらなかった。ロゼッタの勉強道具や、学ぶための資料は、いつも彼の手で作り出されている。
「はー、むっずかしい……。しかもこれ、覚えたらそれではいおしまい、ってわけじゃないんですよね?」
「ああ。この知識を元に、領地でどのような統治を行うべきかを考えるのが我々貴族の務めだからな。無論、王国や同盟のほうが優れた制度を用いているのであれば、それらも学ばなければならない」
「ほへあ……」
 べこんと落とした頭を持ちあげながら、ロゼッタはくちをぱかりと開けて吐息をこぼす。夜に少し勉強しただけで頭が一日中歩き詰めたあとの足の裏みたいに硬くなってしまっているのに、これでは少しも足りないのだという。兄に勉強を教わるようになってからいつも思っていることを、今日もまた、しみじみ感じざるを得なかった。
「ほんっと、貴族になるって大変ですねえ……」
 フェルディナントは、これを貴族の義務だと言う。学ぶことを許された者は、すなわち学ぶ義務があるのだと。権力と立場を持って生まれてきた者は、それらを持たぬ者を守り導く責務もまた持って生まれ落ちているのだと。だから彼は常日頃から研鑽を怠らず、またロゼッタにも惜しみなくその知識を与えている。たくさん学びなさいと家の書庫の椅子をひとつロゼッタに与えたその日から、彼女が「わかんないんです」と言ったことの全部を教えてくれる。
 もう十年だ。十年こうしていて、それでもまだまだ足りないのだから、貴族というのも大変だ。思わず息吐いていると、机のうえに散らばっていた紙束をまとめたフェルディナントがロゼッタの顔を僅かばかり覗き込んだ。
「……後悔してはいないか」
「ん? なにがです?」
 常に自信に満ちた兄にしては珍しく、その表情に不安の影がある。憂い顔でそっと問いかけられた言葉に、ロゼッタは首をかしげた。微かな振動で肩から落ちた髪が掬いあげられ、耳にかけられる。骨が太くて、筋肉のついた、長い指。ロゼッタとはまるで違うかたちをした、フェルディナントの指だ。
「お前が、我がエーギル家の人間となったことだ」
 かたちが違うのも当然だ、ロゼッタとフェルディナントは血肉の源泉を同じところに持っていない。いまから十年ほど前、ロゼッタは拾われたも同然の経緯でエーギル家の子供となった。養子とすら告げられず、最初からエーギル家の子供のひとりであったかのように公表されたのだ。だからロゼッタとフェルディナントに血が繋がっていないことを知っているひとは、ごく僅か。察しているひとは、まあそれなり。けれどそれは公となっていないから、この話をするのはふたりきりのときだけと決まっていた。
「私はお前を妹と思っている。だからこそお前にも、こうして貴族の責務を果たして欲しいと望んでいる」
「そうですねえ。なかなか兄様に追いつかなくてお恥ずかしい限り」
「いいや、これまで積み重ねてきたお前の努力はこの私が誰より知っている。お前は本当に、よく学び、よく覚えてくれているよ」
「最初は文字の読み書きも、数字の計算も出来なかったですもんね」
 貧民街で生まれ育った孤児であったロゼッタは、フェルディナントにとっては当たり前の常識も知らなかった。ある日突然妹となった少女とどう関わったものか悩んでは微妙な距離にしかいなかった兄の姿は、いまでもよく覚えている。それを見かねた家令に促されるまま当時七歳だったフェルディナントがロゼッタの遊び相手をしているうちに彼女が文字の読み書きすら儘ならないと知り、それに激怒し、父へ猛抗議をしたのである。
「兄様が父上に怒って勉強を教えてくれなかったら、私は未だに数も数えられなかったでしょうから」
 彼女が自分の妹であり、真にエーギル家の子供であるというのなら、何故貴族に相応しい教養を与えようとしないのか。何故礼儀作法や、舞踏や、花嫁修業しかさせず、本のひとつも読ませてやらないのか。父の偏った教育方針に憤ったフェルディナントは、それからロゼッタの教師となった。絵本を読み聞かせるところから始まり、庭師の摘んだ薔薇を使って数の足し引きを教え、寝物語にこの世界の創世神話を語り聞かせた。その末に、渋る父親を半ば強引に言い包めてロゼッタもこのガルグ=マク士官学校へ入学させたのである。彼女に少しでも、学ぶ環境を与えるために。
「だが、これはあくまで私の判断だ。私がお前にそうあって欲しいと望み、私がお前へ与えているだけに過ぎない。これは決してお前の望みではないだろう、ロゼッタ」
 耳の傍から指が離れ、フェルディナントは少しだけ困ったような顔で微笑む。だがその言葉を聞いて、ロゼッタは、つい笑ってしまった。全く以て、我が兄はどうにも生真面目でいけない。確かに彼女は自らそれを望まなかった。父とは、そういう約束をしてエーギル家の子供になった。けれどそれは、ロゼッタがなにも知らなかったからだ。
「兄様も知ってるでしょうけど、私、いいなーって思ったことしかやりたくないんですよ。数字の計算を覚えたのは、そっちのほうが交渉出来るなーって思ったからですし。文字を読もうと思ったのも、そっちのほうが便利だから。嫌なことはね、それしなきゃいけないんだなーって納得出来なきゃしたくないんです」
「ああ、もちろん知っているとも」
「だから、兄様がそんなこと心配しなくていいんですよ。確かに兄様の教えてくれることは難しいですけど、必要だな、やりたいな、知らないより知ってるほうがいいなって思ったから勉強してるんです。私もこれで、好きでやってるんですよ」
 無学とは弱者の象徴であり、無知であればそれだけで搾取されてしまうのだと知ったのは、フェルディナントが持ち得る知識をロゼッタに与えたからこそだ。物の道理と世界の構造を学んだいまとなっては、知識とは世界を生き抜くうえで力と同等に必要なものであると認識している。それならば、どうしてフェルディナントから注がれるものを疎むことが出来ようか。「だから、次のお休みにまた教えてください」そう言って甘えるように兄の顔を覗き込めば、瞳のふちから陰りが消えた。そのことに、こころがふんわり明るくなる。やはりこの兄には、明るい顔で手を引いていて欲しいと思うのだ。
「ああ、そうだな。ならばまた今度、今日の続きをしよう」
「はい! 時間かかっちゃいますけど、また教えてくださいね、兄様」