金継ぎの華 - 1/3

 夕暮れ前の花見坂は、馴染み深くもほの切ない。傾きかけの太陽に照らされた屋根瓦は郷愁の前触れに光り、並んだ軒からはその合間を縫うようにして香り立つ前の湯気があがる。日暮れ前、夕餉の香りが広がる前の、賑わいとぬくもりの真ん中。その僅かな時間は怜にとって、ともすれば黄昏時の深い影より切ないものであった。
 普段であれば家事に勤しみ仕事の支度をする時間だが、今宵は久しい羽伸ばし。そのため怜はお座敷へ上がるためのものではなく薄化粧で自らを整えて、花見坂を下っていた。下駄を鳴らして表通りを進み、やがて見慣れた邸宅へ。怜は迷わず裏手に回ると、そこに座り込みながら手元を真っ黒に汚している人物を覗き込んだ。
「宵宮」
「うわっ、吃驚した! なんや怜か、突然声かけんといてや」
「難しいことを言うのね。声の前兆ってどういうものかしら」
 黙々と作業に集中していた宵宮は大袈裟なほどに肩を震わせるけれど、彼女の集中力を思えば驚かすことなく呼びかけるほうが難しい。幾度となく繰り返してきた言葉を挨拶代わりにまた交わせば、宵宮はつんとくちびるを尖らせながら「相変わらず口達者なんやから」と苦みをこぼした。そこまでがひと通りの様式美めいた、ふたり流のご機嫌よう。
「どしたん、なんか買うん?」
「ううん。今日はおやすみだから、宵宮に会いにきただけ」
 やがて彼女は作業を一時中断すると、火薬と木炭で真っ黒になっていた指の汚れを拭う。それでも頬には鼠色の粉の跡、きっと汗を拭ったときについてしまったのだろう。怜が自分のハンカチで宵宮の頬に触れれば、彼女はなんとも不思議な表情で怜に視線を向けた。
 「あんたなぁ……」まるで長屋の子どもたちにするような触れあいが気恥ずかしかったのだろうか。そうだとしたら、なんとも微笑ましい。思わず笑みをこぼしたのち、怜はハンカチと代わって手荷物を宵宮へ差しだした。なんてことはない、『木南料亭』で買った水饅頭である。
「はい、これ。施し」
「ほんま、自分でよう言うわ」
 尖った言葉はある種の合言葉めいていて、だからこそ宵宮は呆れ顔でそれを受け取ってくれる。彼女の寛容さに甘えている自覚があったから、怜は長野原家の縁側に向かいながら首をひねった。
「駄目かしら」
「そんなわけあらへんやろ。あかんかったら、そもそもあんたとこうしてへんよ」
 問いかければ、ため息とともに受容。やがて宵宮もくちびるを緩めて縁側に腰を落ち着けたから、眦は一層にほどけてゆく。

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 怜は幼い頃から、こうして宵宮の隣にいた。長屋に引き取られてから間もなく彼女との交流が始まったのは、当時の花見坂で年の近い同性は怜と宵宮のふたりだけだったからに過ぎない。それでも宵宮は怜を気に入り、新参者であった怜の手を引いてあちらこちらへと連れだした。
 甘金島で開催される夏祭りも、そのひとつ。幼かった当時、宵宮は父の自慢の仕事である盛大な打ち上げ花火を見せんと怜を長野原花火大会に誘ったのである。
 誘われたから、誘われるがまま、ただ彼女についていった。知らない離れ小島まで宵宮と手を繋ぎ、けれど灯りが近付くにつれて行き交うひとも多くなる。小さな身体はやがて人波に飲みこまれ、怜は誰とも繋がっていない手のひらを見下ろすと、道脇へと身を寄せた。そこに不安もさみしさもない、元よりそういう日々だった。誰とともにあることもなく、当たり前に隣りあう誰かたちとは他人事同士。彼女のなかに浮かんでいたのは、精々が長屋へ帰るまでの道のりくらい。宵宮がいないならやることもなくなってしまったから帰ろうかと人波への逆流を決めた瞬間、ぱっと右手が握り締められた。
「怜! 見つけた!」
「……宵宮」
「よかったあ! はぐれてしもて、どないしよかと思ったわぁ」
 怜のものよりずっと熱い手が、怜をその場に縫い留める。宵宮があまりに嬉しそうに笑うから、怜は少し不思議な心地で彼女の手を握り返した。そうすると宵宮は、もっと笑顔になる。
「へへ、でもうち、すぐ見つけたやろ? 怜はべっぴんさんやからな、離れててもすぐ見つけられんねん!」
「ふうん……?」
 宵宮はよく、怜を「べっぴんさん」と呼ぶ。その言葉の意味はよくわからない、けれど宵宮は怜をそう称するときいつも頬を染めて笑うから、きっと悪い言葉ではないのだろう。だから怜は、耳馴染みのない言葉をいつもそのまま受け取っていた。
「さ、お祭り行くで! 花火大会にはな、いーっぱい屋台も出とるんや。りんご飴とか、お好み焼きとか、お面屋さんも! 気になったもんあったらなんでも言いや、うちも一緒に買うさかい」
 ぎゅっと手を握り締め直し、宵宮が怜を人波に乗せる。彼女はよほど祭りを楽しみにしていたのだろう、明るい笑顔がいつにも増してきらきら、ぴかぴか。けれど怜は、首をかしげる。いつも不思議だったことが、また不思議なものとして浮かびあがった。
「宵宮、どうしていつも買ってくれるの?」
 親も身寄りもない自分にとっては、花火大会の屋台で売っているものなんて知らない世界。買い方も知らない、買うためのモラもない。長屋のおとなたちが寝るところと食事を与えてくれるだけ幸運な身に、宵宮はもっともっとと色んなものを怜に分け与えた。
 花火、飴玉、おもちゃに絵本。差しだされるたび、ただ不思議だった。怜にとって他のひとは、隣りあうことのない他人事の存在だったから。
「ほどこし?」
 唯一思い当たるものをくちにすれば、その瞬間、宵宮の顔がかっと赤くなる。ぴかぴかの笑顔が消えて、繋いだ右手にみしりと痛み。思わずその手を引っ込めれば、宵宮の目がぎらぎら濁った。
「なんや、それ」
 その表情が怒りであること、それくらいは怜にもわかる。けれどどうして宵宮が突然怒ってしまったのかがわからなくて、眉をひそめた。だって、聞いただけなのに。
「そんなわけないやろ!? うちは、うちはっ! 怜と一緒に遊びたくて、食べたくて!! なのに、なんや、なんやそれ!!」
 それなのに宵宮は怒って、泣いて、わんわんと大きな声。まるで彼女自身が花火のようで、しかし怜には大きな火の止め方がわからない。
 ――その日は結局、騒ぎを聞きつけた宵宮の父親が迎えにくるまで彼女はずっと泣いていたし、怜はずっと、宵宮の泣いた理由がわからないままだった。

 花火大会の夜、宵宮の父親を挟んで花見坂へ帰った数日後。怜は長野原花火屋の表に立ち、周囲をきょろきょろと見わたした。いつもは宵宮がお店を出たところで遊んでいるのだけれど、今日はその姿もないから、どうやって呼びかければいいのだろう。その場で立ち呆けてしばらく、そんな彼女に気付いたのは、今日はやっぱり宵宮ではなかった。
「おっ、怜ちゃん。宵宮に会いにきてくれたんか?」
 店のなかにいた宵宮の父が偶然表へ出てきたから、彼の言葉に頷くことで返答する。「なんや、今日はいつもより可愛えやないか」まるで宵宮みたいな言葉には、どう返事をしたら良いのかがわからなかったから、首をひねることしか出来なかったけれど。
「ちぃと待っとき、すぐ連れてくるさかい」
 わかる言葉には頷いて、店の内側へ戻っていく男性の背中を見送る。「宵宮ぁ! 怜ちゃん遊びにきてくれたで!」「知らん! おらんって言うといて!」声の大きな親子の会話、それを聞いて不思議に思う。怜には嘘を吐く理由がわからなかった、会いたくないのならそう言えばいいのだから。
 わからないことばかりだと思う。怜にはまだ、花火大会の夜に宵宮の見せた怒りの理由がわからない。自分を引き取っている女性へその話をすれば、困ったように微笑まれた。「宵宮ちゃんは、自分の思いが貴方に伝わらなかったことが嫌だったのよ」彼女はそう言ったけれど、怜にはそれがわからない。思いって、伝わらなかったら、そんなに嫌なものなのだろうか。
 「貴方に喜んでほしくて、貴方のためにやったんだって、そういう思いがあるの。それはときに、贈りものよりずっと受け取ってほしいものでもあるのよ」彼女は怜の頭を撫でながら、そう言った。怜にはわからない、怜が持っていない感覚を話した。宵宮が嘘を吐いたのも、それと同じようなものなのだろうか。
「ほんまにええんか? 勿体無いなぁ、なら俺がもろてしまおかなぁ」
「はあ? もらうってなんやの」
「さあてなぁ、あー勿体無い! でも宵宮が怜ちゃんと遊ばへんならしゃーないわなあ」
「ああもうっ、わかった! 行けばええんやろ!」
 大きな声はやがて消え、ふたりぶんの足音。お待たせ怜ちゃん、宵宮の父親が明るくそう笑う隣で宵宮が着物の裾をぎゅっと握り締めながら怜を見る。その瞳が宵宮の好きな飴玉みたいに丸くなったから、なにかあったのだろうかと怜は首を小さくひねった。
「な? 会わへんかったら勿体無かったやろ?」
 彼はそう笑うと、宵宮の背中をぐっと押す。宵宮が一歩ぶんだけ怜に近づく。その勢いでか視線は外れたけど、宵宮が目の前にいたから、怜は「あのね」くちを開いた。
「……私、なんにも持ってないから。宵宮みたいに、なんにもあげれなくて」
「っ、せやから!」
 わからないことだらけの、夜の続き。繋いでいた手を引っ込めたから、そのままどこかへ行ってしまったもの。見えない手元から、それを探すみたいにして声を出す。宵宮は甘金島と地続きの怒りをすぐに燃やして、でもそれは、またすぐに引っ込められた。宵宮の父親が、彼女の肩をそっと撫でたからだ。
 「怜は、宵宮ちゃんが泣いたときにどう思ったのかしら」怜を引き取った女性から投げられた言葉を、三日くらい噛み続けた。どうしてだろう、花火みたい、不思議。そして――「宵宮は、笑ってるほうがいい」。二日目の夜にそう呟くと、彼女は嬉しそうに笑った。「じゃあ貴方も、宵宮ちゃんのために、なにか贈りましょう」よくわからないまま、その言葉に頷いた。宵宮と遊んでいるときと同じだ。知らないことも、彼女を真似していたら、なんとなく出来るようになったから。きっと、それと同じなのだろう。
「だから、おめかししたの。……はじめて」
 宵宮はいつも、怜を「べっぴんさん」と呼ぶ。その言葉の意味はわからないけれど、宵宮は決まって頬を赤くさせて笑うから、良い言葉なのだろうと思った。だから「べっぴんさん」を贈ることに決めて、相談して、髪を結ってもらった。宵宮と同じように高い位置で髪を結んで、蜻蛉玉のついた髪飾りを借りて。女性はそれを「おめかし」と言った。
「べっぴんさん。あげる、宵宮にだけ」
 これでおあいこ。そう言って、宵宮に向かって両手を伸ばす。あの夜の続き、もう一度手を繋ぐために。宵宮はまた瞳を飴玉みたいに丸くさせて、でもぴかぴか笑顔にはならなくて。彼女は怜の見たことない顔で、怜の身体を抱き締めた。
「うん、うんっ……」
 繋ぐための両手はからっぽのまま、代わりに身体の全部が宵宮と重なる。どうすればいいかわからなくて固まっていたら、宵宮の肩越しに彼女の父親と目があった。彼が自分の両手をぎゅうっとしたから、ああそうか、そうするのかと。からっぽの両手を宵宮の身体に回すと、もっともっと抱き締められた。

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 勝手知ったる他人の家とはまさにこのことで、宵宮に代わって緑茶を淹れた怜は小皿も拝借して盆に乗せたそれらを縁側まで運ぶ。買ってきたばかりの水饅頭を小皿に移していれば、庭先で手を洗った宵宮がおもむろに呟いた。
「……ほんま、別嬪さんになったなぁ」
「どうしたの、急に」
「怜が「施し」とか言うから思いだしたんや。昔っから綺麗やったけど、輪をかけて別嬪になったなぁおもて」
 縁側へ戻った彼女に小皿と緑茶を差しだせば、満面の笑みで頂きますと両手のひらが重なる音。召し上がれと微笑んでから怜も宵宮と同じように両手を合わせ、淹れたての緑茶でくちびるを湿らせた。
「私を綺麗だって言うなら、宵宮が原因よ」
「うちが? なんで?」
「貴方が私のこと「別嬪さん」っていつも言うから。そうじゃなきゃ私、おめかしの仕方を覚えはしなかったわ」
 そうでなくとも、怜が自らを着飾った理由は宵宮にある。彼女に「べっぴんさん」を贈ったその日から、怜は宵宮と過ごすときには決まって髪を高い位置に結い、彼女の髪型を真似ていた。それが宵宮だけに贈った、一番最初の「べっぴんさん」だから。
「だから私が褒められたら、いつでも胸を張ってね」
「っはは、なんやそれ。まぁ怜がそう言うんなら自慢させてもらおか、稲妻一の芸者の美はうちが作りましたって」
 宵宮はあっけらかんとした調子で笑っているが、いまの怜は知っている。怜がこの髪型をしているとき、宵宮はうっとりと瞳を眇めて怜の髪先を丁寧に撫でるのだ。

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